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君だけが僕の救い ~Solliev0・感想~

 8月。夏。お盆。きっとこの夏に見届けたあの愛憎の物語を、来年の夏も思い出して泣いたりするんだろう。舞台「Solliev0」、全15公演無事に完走おめでとうございます。本当に本当にお疲れさまでした。
 正直、わたしはそんなに現地に居たわけでは無いんですが、後半戦が配信も含めて連日すぎたので、さすがにちょっと疲れましたね。いっぱい考えて、いっぱいツラいなぁと思い、それでも彼らの選択を尊重したいと思える、そんな物語だった。
 ドラマの発表があった時は「tvk!何しようとしてんねん!」て思わなくもなかったけど、蓋を開けてみると会場選びとグッズ周りの微妙なあれこれ以外、つまり作品そのものには何にも不都合や不満は無かった。テレビドラマ6話も舞台も全部の物語が大好きで、個人的に近年出会った作品の中でも上位に食い込む性癖作品でありました。まあ、好みは分かれると、思う、けどね……。あと会場選びはちゃんとして欲しい。本当に。

 ドラマ6話終わった時点で、わたしの想像していたラストは「春陽と冬真が相討ちで2人とも死ぬ」「春陽が冬真を殺す」「冬真が春陽を庇って死ぬ」の3つ。実際舞台を観たら最後までそのどれもがありそうな瞬間があって、初見の時は「ここが終わりかな…?」と何度か思って、でも全然終わらなくて、ほさかようさんという作家の、人間の内面の複雑さを丁寧に描く真摯さに感動した。冬真は春陽を殺せるタイミングが何度も来るし、春陽も同様にそう。でも彼らは何度も躊躇って、何度も思い留まって、そして終末へと向かって行く。

 わたしはこの物語の「憎しみ」の描き方がすごく好き、というか共感できるから、この話にのめり込んだし、登場人物みんなのことが好きで居られた。冬真が抱えるような「憎しみ」「許さない気持ち」「忘れないこと」っていうのは、すごく強い感情だから人それぞれの価値観があると思う。だけど、わたしにとっての「憎しみ続けること」は冬真と同じように「楽しいこともある、悩むこともある」というものだと捉えている。勿論、生きている間中、憎しみの対象に烈火の如き憎悪を向け続けることで自分を支えている人も居ると思うんだけど、個人的な実体験としてそれはあまりにもツラすぎる。日常生活に支障出るし。だから、普段は普通に日常を送れる程度の抑えた感情として抱えていて、憎しみの対象がとあるスイッチを押す言動をしたのを目撃した時に「憎い」という強い感情をいつでも引き出せる、そんなような精神状態が憎しみの長期保存のコツである。それが続く限りは「ずっと許さない」ということでもあるし、「忘れてやらない」ということでもある。
 そうやって考えていくと、最後の最後まで「春陽を殺すのは俺」と唱え続け、春陽に強い憎悪を傾けているように見えた冬真は、その感情を内に抱え続けることで自分の生きて行く理由を正当化していたんだと思う。そもそも冬真が春陽に復讐しようとしたのは母である詩織が、春陽の母である涼子に精神的に追い詰められて無理心中を計ったからであり、その復讐先は最初は3人だった。2人の父親の治良、そして涼子と春陽。治良への復讐は「自分(冬真)が春陽を殺すこと」、涼子への復讐は「天月(会社)を乗っ取ること」、そして春陽への復讐が「誰よりも信頼させて、そして裏切ること」。つまりドラマ6話で治良が病死した瞬間に、冬真は別に春陽を殺さなくていいんですよね。実際、新田にどこでどれだけ言われても春陽殺害を引き延ばしに引き延ばしまくった冬真は、治良が死ぬのを待っていたようにも見えた。そして、治良は勝手に亡くなったし、春陽への復讐も完了した。だから「春陽を殺すのは俺」と言う言葉は舞台が始まった時点では全く必要無い。だけど冬真は舞台の時間軸でもそれを言い放った。何故なんだろうと考えて、もしかしたら冬真は復讐が完了してしまったら、母親を置いて一人だけ生き残った自分の生きる理由が無くなってしまうって思ったのかもしれないな、と考えた。そして復讐の次の生きる理由、自分への使命として「粛清」を課したのかもしれない。
 これは勝手な妄想かもしれないけど、天月冬真は自分が「生きていても良い存在」だと無条件に受け入れられるような人間ではなかったと思う。母を1人で逝かせてしまった罪悪感、親の居ない施設生活の孤独、虐められながら義理の家で過ごし続ける虚無感。色んな経験をしてきた中で、理由無き安息の日々を受け入れることが出来るタイプには到底見えなかった。そんな冬真が生きて行く理由の1番深くに根付いてしまったのが天月春陽だったのだと思う。
 「春陽は俺が殺す」、裏を返せば、冬真が手を掛けない限り春陽は死んではいけないということだ。そして舞台で新田が冬真を後ろから押さえ込んで「一緒に(春陽を)撃とう」と拳銃を握らせた時、冬真は明確に「嫌だ」と拒否する。これまで何度も冬真が春陽を葬り去る機会はあった。ドラマでは首に手を掛けたし、舞台ではナイフで刺したし、頭に銃口も突きつけた。だけど、春陽は最後まで生き延びて冬真の前に何度でも戻ってくる。何故か。答えは簡単で、本当は冬真は春陽を殺したくなかったからだ。殺そうと何度誓っても殺せない存在だったと言う方が正しい。ずっと憎いと思い込んで、春陽に出会わなければと思い込んで、でも本当の本当は春陽のことが大切で、すべての血縁者を失った冬真にとっては血の繋がった最後の1人で、無条件に自分のすべてを受け入れてくれる唯一無二の特別な人間だった。チープな表現しか出来ないけど、春陽や虎太郎、空、悠人、色んな人を騙して裏切って嘘をついてきた冬真も、自分に嘘をつくことが出来なかったということなんだと思う。春陽への憎しみも殺意も嘘では無かった。でも、春陽を殺したくないと抗う気持ちも、きっと本物だった。
 だから、冬真は生前最後のシーンで春陽の指に指輪を見付けた時「ありがとな」と笑顔でお礼を言う。会社も友達も奪われて、何度も殴られ蹴られ言葉で傷付けられ、散々酷いことをしてきた冬真のことを春陽が「今も大切に思っている」ことに気が付いてしまったからだ。冬真は「自分が大切に思われていること」に対し、遠慮気味で受け取ることをしない傾向のある人間だった。それは春陽に対しても新田に対してもそうだった。たぶん「自分なんて生きている価値も愛される価値もない」というような感覚の持ち主だったと想像している。だけど、最期に冬真は自分に一心に向けられた愛を感じたし、自分の中にあった春陽を大切に思う気持ちを受け入れられたんだと思う。最期の銃声が轟く前、鎖が破壊されるガシャンというSEが響く。あれは2人がドラマのOPのように囚われ続けていた諸々のしがらみが全て壊れた音だったのかな、とわたしは感じた。

 冬真を中心に描かれたのが憎しみの場面だとしたら、春陽を中心に描かれたのは愛の場面である。だからこの物語のテーマはドラマ→舞台で愛が憎に変わったと思いがちだけど、たぶん主人公(クレジットタイトルの先頭)だけを見ると憎から愛に主題が転じたと言う方が正しいのかもしれない。ドラマキャストの先頭は冬真役の和田さんで、舞台は春陽役の染谷さんが先頭だった。
 春陽という人間はそもそも超お坊ちゃんで、一人っ子かつ跡取り息子ゆえのプレッシャーや孤独はあったようだけど、悪女のように描かれている場面の多い母・涼子との関係も良さそうだったし(春陽は普通にお母さんのことが好きそうなシーンがいくつかある)、虎太郎という幼馴染みもいるし、冬真は昔から優しかったようだし、基本的には愛されてすくすく育った人間である。やや世間知らずなところもお坊ちゃまの雰囲気で、何より「他人から触れられると強い拒絶反応が出て日常生活にやや支障がある」というPTSDを抱えていることもあり、周りからは蝶よ花よ気味に育てられてきた気配がある。そんな風に温かく素直に育った春陽だからこそ、最後まで冬真を信じたいと思い続けることが出来たのだろうなとしみじみ思った。
 人間、傷付くことは怖いし、基本的に自分が大事だ。だから普通の感覚として、冬真にあれだけ手酷く面と向かって傷付けられ、幼馴染みの虎太郎も殺したと言われた時に、強い憎悪を抱いてもおかしくはないどころか真っ当だとすら思う。冬真もそう思っていた。母親を殺されたという事実も春陽が冬真を憎んで嫌う十分な理由になるはずだ。冬真自身が「母親の復讐」からすべてが始まっているので、春陽への決定的な切り札として自分が涼子を突き落としたことを打ち明けたにも関わらず、春陽はそれすらも冬真への憎しみへ変化させることがなかった。その件について1番動揺したのは冬真だったので、あの兄弟はそもそも全く違う価値観の中に互いが生きていることに気付くべきだったのかもしれない。だからこそ互いに惹かれ、どうしようもなく特別だったのかもしれないけれど。
 「春陽は俺が殺す」という意思とそこはかとない希死念慮を漂わせ続けた冬真に対して、天月春陽という人間は最後まで、これからも2人で生きていくことにこだわっていた。何度も諦めそうになって、過ちを犯しそうになる危うい瞬間はあったものの、その度に春陽の友達である千大と瑛士が飛んできて必死に止めてくれた。そして「殺さないよ。実の兄弟を殺せるわけ無い」という結論に辿り着く。罪を償う冬真を待ち続ける気だった春陽は、たぶん本当の意味で冬真の抱える苦しみを理解しては居なかったと思う。春陽はあの冬真の最後の笑顔を見るまでは、至極善良でお人好しで綺麗事すら信じてしまう、どこまでも光の当たる場所が似合う人間だった。冬真とは根本的に考え方が違う。だけど「終わらせたいんだよ全部!」と取り乱す冬真に乞われ、撃たれて腹部から出血する冬真に「春陽に終わらせて欲しい」と懇願され、ようやく自分が冬真に出来るたった1つの救済を見つける。繰り返すけど、冬真と全く価値観の違う春陽にとって、あのラストは決して救済ではなかったと思う。だけど「冬真になら全部あげてもよかった」と言い切るほど冬真のことが大切だった春陽は、最後は冬真にとっての救いである選択をしたのだ。胸元に下がる指輪を冬真が未だに持っていた理由を、あのお人好しでお兄ちゃん子の天月春陽が悪い方に解釈するわけが無い、とも思うし。
 春陽は冬真を「殺さない」と言ったし、東堂には「優しいお坊っちゃまに人を殺す覚悟があるなら(殺せ)」と威圧されていた。それはきっと新田に「お前が消そうとしているクズにもカスにも家族もいりゃ知り合いだっているんだよ、そいつら全部不幸にする覚悟がねーなら粛清なんてやめちまえ!」と怒鳴られ、覚悟を決めて人を殺し始めた冬真と全く正反対の性質だと言うことを表している。春陽には東堂を殺せる機会も新田を殺せるチャンスもあった。冬真だったらやっていただろう。でも春陽はずっとギリギリのところで踏みとどまった。散々窮地に追いやられつつ、決して人を殺すことの出来ない、普通で優しいお坊ちゃん。そんな春陽が自分の手で殺した唯一の相手、それが冬真だった。ドラマの中で春陽は父・治良に向かって「支え合って生きてきてなんか無い、俺ばかりが冬真に支えられてきた」と言う。春陽は冬真に沢山のものを貰った自覚があった。そして、感謝も恩も信頼も愛情もあった。舞台ではその全てが裏切られたように見せかけられていたけれど、事切れる直前の冬真は「俺とお前は出会わない方が良かったけど、お前と過ごした時間は……」と言いかける。そして春陽が繋がりを諦めなかった証である人差し指の指輪を見て礼を言い、自分を殺して欲しいと強請る。
 結局、春陽が冬真に返せたもの、それもやっぱり「救い、慰め」だったのだろう。孤独に戦い続けた冬真にとっての一時の安息という慰め、そして最期の救い。楓が言うように春陽がツラいときにいつも1番傍に居てくれたのは冬真だったので、そこに救いや慰めを春陽はいつも感じていた。そして逆もまた、然りだった。だから冬真は最期は春陽の手で終わらせて貰おうとしたんじゃないかな。身勝手で独りよがりで、呪いのように自分を刻み込んで、でも春陽ならそれすらも抱えて生きて行ってくれるという確信が、冬真にはあったと思う。
 悠人と冬真の2人きりのシーンで冬真が「お前と居ると色んなことを忘れられて、少し楽になれた」と悠人に言った。「弟が居たらこんな感じかな、兄貴だから守ってやらないとな」と考えていたと。それはきっと、本当の弟である春陽に対しても同じように思えていた瞬間も沢山あったんだと思う。春陽自体は復讐の対象だったけど、春陽と過ごした日々の中で少しだけ楽になれたこともきっとあった。その事実が今後、忘れずに生きて行く春陽にとって、ツラい思い出ではないと良いな思う。

 この物語を語る上で外せない人は沢山居るけれど、というか全員が外せない存在であることは確かなのだけど、その中でもやっぱり新田司という男は特別だ。新田司の台詞ですごく印象的だなと思ったのは、激昂する春陽に何が目的で冬真に近付いたんだと問われたときの「俺はただ、あいつに良い思いをさせたかっただけだ」という一言。これたぶん、普通は「あいつに幸せでいて欲しかった」と言うところなんですよね。だけど新田の願いはもっともっと強烈で、冬真以外は不幸になっても良いくらいの強さだった。冬真の叶えたいこと、やりたいこと、全部叶えてあげようという途方も無く大きな歪んだ愛。倫理と法に則って冬真の幸せを願っていた春陽と、真逆の方向に舵を切った、全く同じ形の願い。新田にとって、冬真の母である詩織がご飯を作りに来てくれていたことは救いであり慰めだったんだと思う。
 春陽は「お前さえいなければ」と言ったけれど、涼子の事故の際に冬真が自首をしていた場合、冬真と春陽がその後同じ家に暮らすことはたぶん無かったと思う。それはそれで、冬真にとっては天月から遠ざかることの出来るチャンスだったのかもしれないし、春陽は冬真という支えを失ってしまうし、今となっては何が正解だったかは分からない。新田のせいでこの復讐の物語が動き出したことは確かで、でも新田のお陰でレストラン「Solliev0」で過ごした日々があったことも事実である。
 個人的に、新田は冬真を介して自分の中の「詩織が天月に殺された」ことに関する復讐をしていたんだとも感じる。だから春陽を許すことは無かったし、最後にとどめを刺そうとした。何でも自分で背負い込んでしまう冬真の中で新田もまた背負う対象だったのは、新田にとって皮肉なことだなと思うよ、とても。彼もまた春陽と同じく『自分がいる限り冬真は幸せになれない』存在の1人だったということなので。

 この物語はハッピーエンドかバッドエンドか、という話になると、紛れもなくメリバってやつだと思うのですが、普通じゃ無いヤバい兄貴と、普通じゃ無いヤバい弟の物語が、常人の思うハッピーとかバッドとかに収まる訳はなかったなと納得出来る形だと思うし、何よりも冬真に「忘れないで欲しい」というある種の呪いをかけられてこれからも生きて行くことになった春陽本人がそれを良しとしているのであれば、外野がとやかく言うことではないのだとも思う。生きて行くこと、それが春陽の罪。かつて母と共に死にきれなかった冬真にとっての罪がそうであったように。
 春陽を守るため犠牲になった虎太郎、一連の事件で深く傷付いた空、知らなくて良い父の罪を暴かれた楓、冬真のせいでまた兄が捕まった千大、親友を殺された瑛士、冬真に裏切られ絶望した悠人、信頼する上司を失った武本と西沢。そして、兄弟喧嘩を焚き付けたら巻き込まれて命を落とす羽目になった新田。正直この件に巻き込まれて幸せになった人は誰も居ない。だから、誰の物語として受け止めていくかということが大切で、主人公である天月兄弟が決して円満な幸せにはなれなかったとしても、互いに分かり合えたということが演劇の結末としては重要なんだと思う。これは紛れもなく冬真と春陽の物語だった。そして、他の登場人物の気持ちに寄り添って、祈ったり憤ったり泣いたりすることも、間違いでは無いのだと思う。

 360度客席のクラブExシアターで群像劇として描かれたこの作品は全部「どこかの誰かの話」を覗き見る状況だった。だからこそ、誰に寄り添っても寄り添わなくても良い。だって「どこかの誰か」は結局他人だし。
 でも最後に瑛士がドラマ1話の春陽と同じように「ここはちょっと特別なレストランなんです」と言った。それはつまり、人生色々あった千大と瑛士はこれからもどこかの誰かの救いや慰めになっていこうと決めたということだ。それは簡単なことでは無いけれど、手を差し伸べてくれる存在がある限り、どんな場所からでも救われる瞬間はあるのだろう。冬真の真実をすべて知った春陽が、それでも冬真に手を伸ばし続けたように。生きて行くとツラいことも苦しいことも沢山あるけれど、そういう優しい誰かの居る世界は、きっと捨てたものではないよね。

 以上、感想終わり。情報量が物凄く多いので、観る人によって色々なことの受け止め方が結構変わりそうな作品だと思う。どの俳優を推しているか、とかでも話の捉え方は全く違いそう。でも、ドラマから丁寧に情報を整理して追ってきて、サスペンスとしてもすごく面白かったし、どの登場人物の事も大好きで、出会えて良かった作品でした。
 この先の物語は無いと分かるけど、スピンオフとして、レストランで4人で過ごしていた日々の事とか、平和な新田組の日常とか、あとは新しいSolliev0の店内のこととか、楓と悠人がどんな会社員生活しているかとか、何でも知りたいので、いつでもお待ちしています。
 本当に本当に楽しかった。1週間は配信を見ながら、余韻に浸ります。

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