見出し画像

ノンマザーが少子化について考えたこと

先日のニュースで
日本の出生率が全国平均1.2人になったというニュースを聞きました。
東京は0.99人ということで、初めて1人をきったということです。

私自身はノン・マザー(母親ではない女)という立場にいます。
積極的に産まないようにしているというわけではなく
子供が欲しいという気持ちはあるのですが
授かっていないという状態です。
歯切れの悪い言い方になってしまうのは
もうそろそろ年齢的に厳しくなっているからという面があります。

毎月生理の時期が近づくと
今回はどうだろうかというふうにソワソワしては
ダメだったというふうに落胆しということを繰り返しています。
もう諦めた方がいいんじゃないかなという気持ちと
もう少しトライしてみたいなという気持ちで揺れ動くのですが
これが結構毎月辛かったりします。

出生率の低下に加担している側の人間といえば
そうなってしまうのですけれども
生まないという選択をする
あるいは選択をせざるを得ないということには
人により様々なパターンがあると思います。

政府の子育て支援の話がそのニュースの中で出てくるのですが
もちろんお金が支給されたり補助が受けられるというのは
助かるし嬉しいと思います。
ただそういうニュースを聞くたびに
「お金だけじゃないんだよね」とどうしても思ってしまいます。

現代では生き方の選択肢が広がったことと
自由に生きるチャンスが広がったため
そのことのある種の副産物のようにも感じます。

昔は(それがいいかどうかは別として)
それ以外の生き方というのがなかったためです。

私の知人に野球部ママ
いわゆる子供が少年野球団に入っているお母さんがいます。
その彼女の話を聞いていると
本当に大変なんだろうなというのを感じます。

休日は練習や試合のために
1日中付き添いをすると話していました。
多くのスポーツ少年団というのは
運営を父母たちの力で回しているためです。

練習がある日は毎回付き添っているとのことでした。
なぜならボスママみたいな人がいて
ちゃんと毎回練習に来ない親に苦言をしたり
何かしら意見を言おうとしたら
「練習に来てないあなたが言うの?」みたいな
空気を出してくるからとのことでした。

その話を聞いて本当に震え上がってしまいました。
「子供の付き添いで自分の時間がない…」という言葉を聞くと
悲しくなると同時に
「どうして子育てってそんなにハードモードなんだろう」
と感じてしまいます。

これは極端な例かもしれませんが
実は結構ある話なのではないかなとも感じます。

会社にワーキングマザーたちが数人おられるんですけれども
私から見るとスーパーウーマンで
短い時間の中で結果を出すために
彼女たちのキーボード打つ速さ、歩く速さ、食べる速さというのは
通常の人の1.5倍は速いと思います。

トイレ休憩以外の休憩もほぼとっておらず
朝来たら夕方帰るまで
ずっとキーボード叩き続けているというふうな状態です。

私から見ると本当に
働きながら子育てというのは無理ゲーだなと感じます。

我慢したくない、何も犠牲にしたくないというのは
もしかしたらわがままなのかもしれませんが
こういうことを考えていると
自分がいつか服役しなくちゃいけない囚人のような
今は自由に好きに生きてるけど
いつか不自由になる日が来るんじゃないかというような
気持ちになったりします。

『母親になって後悔している』という本があります。
オルナ・ドナートさんという
イスラエルの社会学者・社会活動家の方が書かれた本です。
以前私のnoteでも
こちらについて記事を書いたことがあります。

もし時間を巻き戻せたらあなたは再び母になることを選びますか?
この質問にNOと答えた23人の女性にインタビューし
女性が母親になることで経験する様々な感情を明らかにする。
女性は母親になるべきであり
母親は幸せなものであるという社会常識の中で
見過ごされてきた切実な思いに丁寧に寄り添った画期的な書。

「母親にならなければよかった」ということを
口にすること自体がタブーとされているというのが
本書の中で書かれています。
オルナさんのところにも
「子供の気持ちを考えろ」というような批判の手紙というのは
たくさん届くそうです。

ただ女から母という存在になった途端に
母親というのは無償の愛を注ぐことができる特別な存在
というふうに変わるとみなされている面があるように思います。

私も実はそれが結構怖かったりもします。
もし子供を授かったとしていつか自分が
「この子のせいで、私何もできないじゃないか」とか
「この子さえいなければ…」というふうに
思う日が来るかもしれない
そうなるのが本当に怖いというふうに感じます。

このことについて私が尊敬する女性が
(この方はもう成人されたお子さんが二人おられるんですけれども)
おっしゃられたことが非常に印象的でした。

このことについて相談したときに
「あのね、そう思うのってすごく自然なことなんだよ」と言い
そして「私だって何回思ったかわからないわよ」とおっしゃいました。

ちなみにこの方はお子さんのことを
本当に大切にされているってことは言葉にはされませんが伝わってきます。

そして先ほどの言葉に加えて
「『そんなことを考えてはいけない』と
禁止することそのものが不健康で苦しいことなんだよ。
100%言い切ってもいいけれども
もしあなた(私のこと)が子供を産んだら
絶対そう思う日が来るから。
そう思う自分を許してあげるんだよ」と言われました。

自分自身が「母親」というもの対する
「こうあらればならない」というタブーを持っていたんだ
ということに気づかされました。
自分自身の中にも社会にもまだまだ
子供のために親が自分を犠牲にするという構図があるなと感じます。

経済的な支援というような物質面もですが
気持ち的に安心して育てられる雰囲気の社会になってほしいです。

悲しいかな妊娠出産というのには
生物学的なタイムリミットがあるため
もしかしたら私はもう無理なのかもしれません。

ただ、社会全体というのが
「みんなで子育てをしよう」というような雰囲気
「もう無理だ!育てられない!」という弱音さえも
「じゃあ、みんなで何とかしようじゃん!」と
受け入れられるほどに包容力のある社会になってほしいなと思います。

昔は子供がたくさん生まれたと言いますが
それは誰かがいろんなことを飲み込んで
ぐっと我慢してきた結果といえます。
私自身は昔に戻りたいとは思いません。

誰かが何かを我慢するということがない世の中になってほしいからです。

「子持ち様論争」というのが最近話題になりましたが
「子持ち様」であっても「子なし様」であっても
どこか窮屈で何かを我慢しているから
好き勝手やっているように見える相手に
腹が立つのではないかなと思います。

この社会の空気感というのは
政府が何とかできるものではないなと思います。
以前phaさんの『持たない幸福論』という本をご紹介しましたが
その中に
「一人一人が生きやすいように生きるということを通して
 それらが無数に積み重なった結果
 世の中の空気が変わるのだ」というようなことが書かれていました。

少し話は変わりますが
以前聞いていてなるほどと感じた話がありました。

縄文時代など集落で生活していた頃
必ず巫女と呼ばれる女性がいました。
つまり「特定の誰かの母親ではない女性」というのが
必ずいたということです。

誰かの親になると
自分の子供が一番というようにどうしてもなります。
これは自然なことで
そうじゃないと子供というのは育っていかないためです。

けれどもついつい我田引水的な発想になってしまうとのことです。
集落全体のことをフラットに見て
判断したり対応したりできないということになってしまいます。

誰かの親ではないということは言い換えると
「全ての人の親になれる」ということでもあります。
そのことを通して
日本が今、少子化しているんのですが
これは広い意味で考えると
「日本人よ、世界の人々の親になれ」ということだと話されていました。
これはとてもスケールが大きくて
ちょっと私はピンとこないなと思うんですけれども
先ほど言った安心できる場所、グループ、空間を作るということに
貢献することも広い意味で
いろんな人の親になるということなのかもしれないなと感じました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?