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68年 子らの交通指導員に立ち、地域社会の信望を得た牧師

「交通戦争」という言われるほど事故による死者が激増しつつあった1967年(死者のピークは1970年)、子でもたちの登校の安全を守るため、交通量の多い道路の横断歩道に交通指導員として立ち、安全な横断を助ける役割を毎朝果たしてきた牧師の埼玉県北葛城郡杉戸町の辻浦定俊さん(日本同盟基督教団・杉戸教会)の記事が1968年の『クリスチャン新聞』に載った。


googlemapストリートビューで見た、現在の同盟・杉戸キリスト教会。
どうやら神社への参道沿いに建っているようだ。

杉都小学校が国道4号線の北に移転し、通学の安全確保に歩道橋架設の市民運動が始まった。それが実現するまでに国道を渡って通う子もあり、「危険な横断歩道を渡る子にはどうしても交通整理が必要です。そこで私が志願して立たせていただいたのです」と辻浦牧師。

記事が出たときは、「昨年」すでに杉戸警察署から正式に交通指導員として任命を受け、警察官と「同じ」制服に白いヘルメットに緑色の腕章といういでたち。
1963年、自主的に始めた当初は制服はなく、旗と腕章だけだった。

辻浦牧師は杉戸教会に赴任してきたのは1953年。同盟聖書学院(当時の東京キリスト教短大、現・東京キリスト教大学)を卒業したばかりの25歳だった。
明治18年(1885年)開設という歴史ある教会だったが、「戦後の混乱期で閉鎖状態となり町の公民館になっていた。この旧会堂に求道者7、8人ではじめた開拓伝道は厳しい試練だった」。

食費に月1000円少ししか当てられず、「水で伸ばしたおかゆもすすった」。翌年結婚し同年、保育園を始めた。
記事の出た1968年(開園14年)時点で、卒園児は1000人を超えた。

生活の全部が証しであり説教

周囲はほとんど農家で「伝道は困難」。
「ただ説教だけでは通用しません。生活の全部が証しであり、説教だと思っています。幸い、幼い日に祈りを共にした卒園児が1000人を超えました。この子たちを土壌にして福音の種を蒔いていきたいですね」。

交通指導員としての働きは、地域社会の信用や人間関係形成に大きく役に立ったようだ。
それで辻浦牧師は「町の公の場所で祝辞や訓示を依頼されたとき必ずみことば(聖書の言葉)をもって人々に訴えていくという。杉戸小学校PTA会長としても今年で4年の実績があるが、それだけに町での発言力も強く、例えば地元中学で日曜補習を行っている実情に対しても強く反対の意向を校長に訴えていくなど、宣教の立場からあらゆる社会問題と取り組む積極的な姿勢を忘れない」。

クリスチャン1968年4月21日号

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