日刊・生放送1128回「小坂忠のスピリチャリティ」書きたい/文章3つの心がけ/心の平和は暴力によってはもたらされない(2023年05月25日

小坂忠さんのことを、クリスチャンの方向から書いて、読まれるところで公にしたい、という野望を語りました。
ちょっと(ってか、だいぶ)筆が止まっていたのですが、臼井ミトンさんの動画を聞いて触発されました。
私の特に書きたいこと
*忠さんの演奏中のアイコンタクト。「一緒に音楽ができて楽しいね」。それはプロ・アマを問わず。
*一緒に音楽をする仲間を全国に作り育てた。彼らが多くの新しい音楽を作り育てた、一緒に演奏した。
*それは、小坂忠さんがゴスペルの世界に専念したのは「あの人は今」状態になったのではなく、音楽をより磨くことになった
*始めて教会に行って、ヒッピーみたいな長髪の小坂さんに老牧師の言ってくれた言葉。「君は音楽芸術家なんだね!」
忠さんは、自分の音楽を求め、楽しみ、極めたと言えるのでないか?
*アメリカでたくさん歌われているミクタムの歌、音楽としての値打ち、世界への普遍性。etc
▼小坂忠に見出され、デビューした細野晴臣、松本隆、鈴木茂、林立夫(はっぴーえんど、ティンパンアレー)
▼私達夫婦が若い時からなじんだミクタムの曲々、ジェリコジャパン
▼クリスチャン新聞時代、私が文を書くのに目指し、心がけていたこと。
1 正確性。間違ったことを書かない。また取材対象の話したこと、やってることのニュアンスをきちんと再現し、感じてもらえるようにする
2 分かりやすい文。声に出して読み、おのずからこの言葉をこういう風に使うべきだ、という言葉になっていく。
3 面白く。良い素材を、素材のよさそのままに料理する。
★☆★第二部
クリスチャン新聞タイムスリップ第350回
1998年9月13日号
村田充八氏(社会倫理学・宗教社会学)の寄稿「8月に正義を思う テロ多発と報復攻撃」。
フランスのプロテスタント思想家ジャック・エリュールの「暴力考」(唄野隆訳、すぐ書房)は、「暴力の法則」を見事に描いている。
前提として、暴力から全く無縁の国や人間は存在しないであろう。それらは本質的に暴力的な存在かもしれない。
しかし暴力は
1 使い始めると習慣になり抜け出せない
2 主が「剣をさやに納めよ」と述べた如く、「暴力は暴力を創造し、暴力を生み、その子孫をつくる」
3 正当な暴力、不当な暴力の区別は不可能。どちらも暴力である(ここまで昨日語った)
4 時の権力は、自分の大義、正義のために暴力を正当化するが、「暴力によって樹てられたどの政府も、人民に解放や正義を与えたことはなかった」。暴力は暴力を生む
5暴力を用いる人は暴力と自分を正当化することに努める(まさにA氏の姿勢はそうだったのでは?)
暴力は既成事実化され、さらに容易な暴力の使用に進む(いま日本が進んでしまっている道では)。
聖書に、イザヤ2:4、ミカ4:3などに「剣を鍬に、槍を鎌に打ち直す」。真の平和は武力によってもたらされないこと。この点で日本は大きな政策の誤りに陥りつつあるのでないか?
(明日へ続く)宗教指導者の責任
===========
◆今日のこの生放送の記録(FaceBook。コメントなども読めますよ!
https://www.facebook.com/michiharu.miura/videos/200526029577891/
◆毎日(日曜除く)午後6時の生放送は私のFBで
https://www.facebook.com/michiharu.miura/
◆過去の私の生放送のアーカイブ。面白い番組がよりどりみどりです。
https://www.youtube.com/@mitchyshome8585

noteでは「クリエイターサポート機能」といって、100円・500円・自由金額の中から一つを選択して、投稿者を支援できるサービスがあります。クリ時旅人をもし応援してくださる方がいれば、100円からでもご支援頂けると大変ありがたいです。