見出し画像

初の本格的「礼拝史」(98年)

キリスト教における礼拝は、毎週日曜日に、教会で行われる「礼拝」が中心である。

その歴史は、キリスト教の歴史と共に始まり(それ以前に、歴史的ユダヤ教における礼拝という根っこがあるわけだが)、キリスト教の歴史の変遷に伴ってかたちを変えてきた。その時、その時の「信仰のあり方、考え方」が、具体的な日曜礼拝の様式となってかたちを表すわけだ。

さて、1998年3月に教文館から発売された『キリスト教礼拝史』(当時3700円)という本がある。
週刊『クリスチャン新聞』は同年9月20日号「本と出版のページ」で、書影入り700字程度での内容紹介を載せている。わりと大きな記事である。
キリスト教専門紙ならではの扱いであろう。

「評」を書いているのは尾久キリスト教会(日本ホーリネス教団)牧師(当時)の高橋政雄さん。その文を読んで私は「ずいぶん勉強好きの、研究家肌の先生だな」と思った。


ルター派の学者が執筆

高橋牧師は、まず本の著者、W・ナーゲル氏について「ドイツ・ルター派の学者である」と簡潔に紹介する。

宗教改革者マルチン・ルター(1483-1546)は、「当時のカトリック教会“の”改革」を目指したのであって、当時のカトリック教会を全否定しているわけではない(教理的に重い間違いを言う人々がいるのを ただしたに過ぎない)。
だからルター本人の礼拝に対する考え方は、現在のプロテスタント全般に比べて、むしろ、当時のカトリックの礼拝様式を踏襲あるいは是認した面が強い(ルターは、アディアフォラ=差異のないもの=という言い方がされるのだが、聖書に照らして明確に「違う」と判断される以外のものは現状維持でOKという考えだった。その適用事項の中心はまさに礼拝様式のあり方だったのだ。このことは後発の宗教改革者らとの論争にもなっていく)。
だから今日、自らルター派の立場をうたう牧師、神学者においては「カトリックに近い礼拝様式」を自ら保持している場合がほとんどである。だからナーゲルがルター以前の教会歴史における礼拝様式に関心と愛着をもって研究したのは当然だし、一方ルター以降についても、同じプロテスタントの立場から理解しやすいわけだ。

私自身、神戸ルーテル神学校で学んだねらい

私自身、ルターより後発の改革者がルーツである別のプロテスタントの系統の教会で信仰を持っていたものが、40代を過ぎて、教派の問題に悩み、自分の信仰のあり方の根本を見直してみたくなった時に、「ルターの宗教改革あたりまで戻って考えたら分かるんじゃね?」という発想で、神戸ルーテル神学校に入学して学んだから、ナーゲルの立ち位置、有利点はよく分かる気がする。

「典礼的(リタージカルな)傾向の強いルーテル派」の教会における今日の礼拝の一形態。
牧師の着る装束、行う式典、方式などカトリックのものをそのまま
受け継いだ部分が大きい
今日におけるカトリック教会における典礼(ミサ)の例。
第二バチカン公会議(1962-65)の指針を受けて、ルター派同様、司祭は会衆と
対面でミサを執行している。使う言語は現地語であることが多い
一般的なプロテスタントにおける礼拝(福音派含む)形態の一例

日本での、世界礼拝史研究に欠かせない本

さて高橋氏は、「日本のプロテスタント教会には、「礼拝の歴史」について書かれた本は、これまで一冊もなかった」と言う。かなり、確信のある表現である。当然、戦前から含めて、ということだろうか? 相当、学術的リサーチの裏付けがないと書けない文章だと思う。

そして、原著が28年前(1970年)、ドイツ語で上梓され、この「本格的な礼拝史」が日本語に翻訳されたことを快挙だと評価する。

単に前例踏襲にも陥りがちの日本のプロテスタント

このくだりで高橋氏が「礼拝学に弱い福音派にとって、待ち望まれていた本だといえる」と記すのも興味深い。
プロテスタント教会「主流派」よりも福音派は、日曜日の礼拝の「様式」について全般に無頓着だったといえる。すなわち、自分たちに伝えてくれた宣教師や直接教えてもらった先輩らの「前例」を無検証に踏襲し、いのちなきマンネリに陥る傾向なきにしもあらず、それを打破しようとすれば、「自分たちの」発想、論理だけで、「新しいやり方」を加えたりが起こり、それはとんでもない脱線の危険性をもはらんでいたりすると私は思う(高橋さんもそう思っているのだろうと推測する)。

その自分たちの教会における礼拝(様式)のあり方を適切に根本的に考えてみるには、これまでの教会史を確認すべきであろうとは、私も全く同意するところである。

本のカバーする歴史的カテゴリー

本のカバーしている歴史的カテゴリーの範囲としてまず、「新約聖書の時代」が挙がる。これは主に新約聖書を丹念に読んで抽出する作業だろう。

続いて「ニコライ堂系の東方正教会」と来る。なぜ、「ニコライ堂系」とわざわざ高橋氏は補ったのだろうか? ニコライ堂系「以外」の正教会の系譜があると言いたいのだろうか? 私の推測では今日と違って、プロテスタントの人々の間で正教会の存在自体が認識されていない時代状況下で(今日は様相がかなり異なる。プロテスタントで正教会から学んだり、ある部分を真似するのはブームというほどの様相である)、読者にピンときてもらうために、「ほら、あの独特の建築物で名所みたいになっているニコライ堂の所属する教派ですよ」と分かりやすくするために補ったのであろう。

東京・千代田区神田駿河台にあるニコライ堂

ロシア正教の礼拝。ニコライ大主教命日を覚えての
日本語で礼拝とのことです


続いて「カトリック」、そして「宗教改革時代からルター派、改革派のカルヴァン、ツヴィングリ、そして現代プロテスタントの礼拝まで」その「変遷の歴史をすべて網羅している」と高橋氏は評価している。

カリスマ派の礼拝については載っているのか?

私が気になったのは「現代プロテスタントの礼拝」にカリスマ派・ペンテコステ派における礼拝の独特の礼拝形態の部分は含まれているかである。

キリスト教礼拝史 -オンデマンド版-(6380円!)の販売サイトに目次が載っていたので、そこに該当するものがあるかチェックしてみた。

その結果、カリスマ派の礼拝様式については触れられているならば、最終章「第一七章  結語にかえて 諸教会、諸セクト、若い教会の礼拝について」においてであろうと思う。本そのものの中身を確認していないから分からないが、多分触れているのかな、という気はする(要確認)
あるいは「第一三章  福音主義教会礼拝の刷新」に書かれている可能性も高いと思う。

クリスチャン新聞はカリスマ派を正統派の中に数えたが

クリスチャン新聞は、この98年頃も、プロテスタント内におけるペンテコステ・カリスマ派の動向についてかなり関心を持って好意的に伝えてきたと思う。
しかし、同新聞の主要な読者たる福音派の、「きよめ派」系の人々、また「聖書神学舎」卒業生系統の人々の間などでは、ペンテコステ・カリスマ派に対する「警戒心」が強く、クリスチャン新聞としてはペンテ・カリスマ的なことに触れる記事についてどう扱うか、かなり苦慮していた(私も85年~2000年、同新聞に勤めた経験からそう実感する)。

今回評者の高橋氏は、ホーリネス教団の所属のわけだが、きよめ派たる同教団にあっては全般的に、ペンテ・カリスマ派に対する拒否感が強かった。
その中にあって高橋氏が、「現代プロテスタントの礼拝」と言及しているのはどのような中身に対してであるか興味深い。

「現代プロテスタントの礼拝」という場合、大雑把に次の2つがおのずから考えられる。
1つは、プロテスタント陣営の中でいわゆる「リベラルな」神学を採用したグループにおける礼拝である。
2つ目は、ペンテコステ・カリスマ派における礼拝である。

1については、礼拝中の説教の中身については「リベラル」神学的な傾向が強いものがある、という特色があるかもしれないが、礼拝の形態の他の要素について、「リベラル神学だから」独特の、特筆すべきものがあるような気はしない。むしろ礼拝形式においては「伝統」固守の傾向のほうが強い気がする。

2については大いに有り得る。歌う賛美歌の歌詞・曲調は言わずもがな、その「歌い方」、祈りの時間の形態、またプログラムの「自由度」の高さなど、非常に従来のプロテスタントとは異なる特質がある。

▲カリスマ派的な礼拝の一形態(ヒルサイド教会)。
アメリカの伝統的なプロテスタント教会の礼拝様式の
骨格を残しながら、現在の人々にマッチした形態は、
音楽の部分が軽音楽のコンサートのようだし、
説教の部分は何となく「TED」のステージみたいですね。
あ、TEDが教会のスタイルを真似しているのか?

カリスマ派の人口は全キリスト教の26%

また、指摘しておかないといけないのは、現在世界人口に占めるキリスト教徒の割合が31.5%(約22億人)である中で、全キリスト教徒人口の中におけるペンテコステ・カリスマ派の割合は 26.8 パーセント、つまり世界全人口の 8 パーセント以上を占めており、その割合は増加していることだ(地理的にはアメリカ大陸、アジア太平洋地域に集中している)

だからプロテスタント、否、キリスト教全体の趨勢を把握するにおいて今や、ペンテコステ・カリスマ派を無視できない(クリスチャン新聞としての見解はそうであったし、私もそう思う)。そして同派は、キリスト教の中心教理(イエス・キリストの十字架による救済の完全性)を共有しているからで、統一協会のようなものとは全く違うからだ。

この『キリスト教礼拝史』がペンテコステ・カリスマ派における礼拝様式の傾向について触れているなら、それは大変に広い高い見識であり、今日でも必ず参照されるべき、新しい情報も入った書籍というべきということになろう。

高橋氏は同書の「読みどころ」として、「これまで礼拝史があまり扱わなかった」(断言できるところがすごい!)「ヘルンフート兄弟団や英国国教会、第ニバチカン公会議なども扱い、また東方正教会についてもかなり詳しく述べている」という。

英国国教会の礼拝(下の動画はウィリアム王子の結婚式やエリザベス女王の葬式=共に「礼拝」ではないが様式という点で=)が昨今、注目を集めたが、世界のエキュメニカルな研究の中で、英国国教会の礼拝ついてあまり触れられてこなかったというのは意外な気がする。

ウィリアム王子の結婚式の一コマ

第ニバチカン公会議の意義

また「第ニバチカン公会議」(1962-65年開催)というのは、当時の教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後継のパウロ6世によって遂行されたカトリック教会公会議。一言で言えば、古色蒼然で内向きだったカトリック教会を刷新し、現代社会や他の立場の人々と対話できることを企図した。

典礼(カトリックの場合、プロテスタントで礼拝と呼ばれているものをそう呼ぶ)との関連で言えば、公会議以前のラテン語によるミサから、基本的にその国の言葉(日本なら日本語)によって典礼が行われ(日本語ではおおむね、ラテン語の式文を日本語に翻訳したものを用いるが、アフリカなど非常に民族色の濃いかたちで典礼を捧げる地域もある)、また以前は、司祭は会衆に尻を向けて「ミサを上げ」ていたのが、会衆と対面式になり、会衆にとって「いま何が行われ語られているかが分かる」かたちとなった。

アフリカの現在のカトリック教会における
礼拝の様子を伝える動画(BBC)。
最初は伝統的な様式で始まるが。20秒あたりから、民族色豊か、かつ現代的なスタイルで賛美歌が歌われているのを見ることができる。

それら、第ニバチカン公会議による典礼(礼拝)の刷新については「第一四章 一九世紀以降のローマ・カトリック教会の礼拝」に載っているわけであろうか。

礼拝の「内実」を見極めたい

また高橋氏は、同書が「敬虔運動という名前で代表される宗教運動によって、これまでの礼拝秩序の弱体化が始まった」と記していることに対し、「福音派にとって耳が痛い」と記している。なぜなら福音派はおおむね敬虔運動の流れを汲んでいるからだ。

高橋氏としては、伝統に即して週ごとに説教で扱われる聖書箇所やその解釈の方向性が定められてており、内容のしっかりした、定型文に文書化された式文に則って行われる典礼的(リタージカル)な礼拝が良いと思っているのだろうか? ホーリネス教団の教会でそれを行うことはちょっとイメージできないことであるのだが。
ホーリネス系の教会でも、だいたい定型化された礼拝プログラムはあるから、その中身の一つ一つ(賛美歌や詩篇交読、聖書朗読、主の祈り、頌栄、祝祷など)のそもそもの根拠や狙い、あるべきあり方を探りたいということだろうか?

毎週の礼拝を「定例行事」と考えてしまえば、「なんでそんなに礼拝の歴史やあり方にこだわるの?」「ただの礼拝オタクじゃないの?」ということにもなるだろう。

しかし礼拝の文字通りの意味、すなわち全知全能のまことの神を、その御方に対するにふさわしく「礼拝する(worship : to have or show a strong feeling of respect and admiration for……/……を尊敬する・敬意を示したり、感嘆・称賛する強い感覚を持ったり示したるすること)」という内実を伴ったものとして、週1回の教会での礼拝があると考えているならば、代々よよの教会において、クリスチャンたちがどんな「かたち」をもってその礼拝を捧げていたかを知りたいというのは当然の欲求であるだろう。

高橋氏自身は、この本を読む値打ちについて「礼拝の変遷の歴史を学ぶことを通して、礼拝とは何か、聖書的、使徒的礼拝はどうあるべきかということを反省したい」と結んでいる。
「礼拝とは何か」ということばから、まさに礼拝の「内実」を各時代の教会がどのように「持っていたのか」を知り、それをどう今日こんにちに生かすかを考えたいという志が伝わってくる。


週刊「クリスチャン新聞」1998年9月20日号「本と出版のページ」


noteでは「クリエイターサポート機能」といって、100円・500円・自由金額の中から一つを選択して、投稿者を支援できるサービスがあります。クリ時旅人をもし応援してくださる方がいれば、100円からでもご支援頂けると大変ありがたいです。