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GENJI*REDISCOVERED       今日の源氏物語  『光る君へ』29

長保三年、正月、宮中、 
帝への「屠蘇」の余りを飲み干す役目仰せつかった宣孝。 なんと名誉なことか。
まひろの屋敷では ( 数え年 ) 三歳になった「カタコ」毬を転がして遊んでいる。
宮中から戻った宣孝、カタコと戯れて ( 馬 の) 変顔。「もう一度」とまひろ。
今回の演出家は 佐原佑貴氏
「陣定」は「正月の除目」への査定。
そつの無い「越前守」だが「宋人をまだ帰国させられていない」「宋の国の言葉が話せるとの事での徴用なのに…」と 批判あり。(なぜか)斉信 と 公任 もがうるさい。
で 為時、任期 四年で 京に戻って来る事に。
福丸、為時 の居ぬ間…と思っていたのか…、イトさんと別れようとしている。
ところへ、キキョウの訪問。
「賜った紙に「史記=シキ=四季」を書いてみたら…と言ってくれたあなたに一番に見せようと。」と書き上げたものを。 手にとり読むまひろ。「きらきら輝いていた皇后さま、この世の事とは思えない華やかだった後宮の素晴らしい様子を残しておこうと」と。
「いきいきとはずむようなお書きぶり。」と言いつつ まひろは、(「真実が知りたい、ドラマがあるはず…」もあって、)「中宮さまの影の部分も知りたい。」と。 に対して 清少納言 は「皇后さまに陰などございません。」「あったとして書く気もありません!」と怒りだして。
帝をもさえ抑えて、あの強引なやり口と非情さで 定子さまの「命を奪った 左大臣に 一矢報いる」と言う。「騙されてはなりませんよ。左大臣は恐ろしき人。」と感情を露に。
に、ショックな まひろ。
『日記』で、清少納言を貶す 紫式部、史実では、話すどころか会った事もなかっただろうとのこの二人の、このドラマでのツルミ方、やり取りや…共有の体験とかから、訣別、紫式部が「日記」で悪口と言う関係になる展開のはじめ…なのでしょう。 (「物書き」のスタンスとか、「ものの見方」の違いに起因する二人…というか、紫式部の…と書き始めて、危ない危ない「ドラマ」の展開で歴史の書き換えになりそう…です。)
夜、宣孝 戻る。為時の任官ならず。を伝えて、
官職を無くし帰京の朋友=父の事も娘まひろの事も「わしがいるから大丈夫。」しおらしい-心細さに「強気でおれ。」そして、おまえを好いておる「どこにもいかん。」と… 見事な「退場フラグ」三本立!
起き出して来た カタコ に「月を見よう」と 縁に出て満月を見る 三人。
「月見宴」も開催された 平安時代だが、昔からの、月の光りの「不吉」であるという感覚もあった 当時。月の夜の魔に見いられた…のか。
「満月」、『竹取物語』から『望月の歌』の 布石も入った 青い光りです。
( やはり) 信孝、翌朝出かけて戻らぬ人に。
当時の「山城国」の「国府」は 大山崎 辺りにあった模様。 そう、「朝廷・宮(中)」とは別の場所。
宣孝の北の方の使者が来て「俄な病で4月25日に身罷る。」と事後報告。嫡妻の方でも「殿の最期のご様子存じ上げません。」と。
ココも、ネットの俎上に。嫡妻の意地悪とか思い遣りとか、台詞とおりに受け取るか、裏を考えるか…あまた多数のいろいろの見解が…。 …大石本…。
『源氏物語』がそう…だから…かも…ですが、ちょっと疲れる。
突然の喪失。「まさか」ともさえ思っていなかった事態。家の者たちは早くも「身入りが途絶える…」「また貧しさが…」と恐々。乳母は早々と逃げていく。『源氏物語』中で、打算的でダメ~な「乳母」を書く紫式部。
きぬも、越前に帰って雲丹取りの海女に戻ろうかな!って乙丸に。
左大臣、宣孝のこと報告を聞く。
日中も呆然のまひろ、カタコ来て「父上は?」って。娘を抱きしめて泣く。
( そのカタコの着物、大きな「鹿の子絞」?にも見える柄。「絞染め」を意識してあるのかな…。 日本の「染色」技術のピークは7世紀後半~8世紀あたりにあって「三纈」と呼ばれる-多色使いの「染」が存在。
しかし平安時代には、次第に廃れて、紫式部の頃には「蝋纈(ろうけつ染め)」「挟纈(板締め染め)」は無くなる。
(素材の劣化、時間に弱い繊維製品の事なので、伝存していないだけ…という事も考えられるが、やはり、好みの変化等々で、技法としての継続も絶えた感あり。)
「三纈」の内の「挍纈」=「絞り染」技法が細々と「染色」に使われていたと考えられる。のは『絵巻物』に描かれた人々の着物の柄から。 でも「鹿の子絞」は後世のものかと。「生地」として現存=確認出来る「絞り染」は『正倉院御物』=奈良時代と、室町時代後期まで飛んで『辻ヶ花』以降の物くらい。)
百舌彦「左大臣の遣いとして…」為時を労い、重任出来なかった事への詫びも。まひろには宣孝の悔やみを。そして、為時に、左大臣子息 田鶴 君 への漢籍指南を依頼。
なのに為時「ご辞退」って!兼家の密偵だった時の苦慮や道長と添う事出来なかったまひろが、その妻の子どもの指南役をどう思うか…とか気遣って、余計な事考えての辞退。 「落ちぶれだした家」のワチャワチャに 百舌彦、腹を立てて帰る。
当のまひろが「これでよろしかったのですか?」と「おまえの気持ちを考えると…」というバカ父に「私の気持ちなど!どうでもイイ。無職と寡夫でどうやって使用人を養い、子どもを育てる!」と怒る。
頭さげて、為時「そうであるな。」……って ( 言葉使い、ダメ父イメージとも重なり、なんか…「である…」が「沖縄」語か!って思ったり ) 。
宮中『藤壺』、彰子ひとり「貝覆い」。
(後世、贅沢な調度、嫁入り道具ともなる=中を金で塗り絵を描いた「貝合せ」でなく、素の蛤の殻を、貝の模様や綴じ目の合否だけでペアを見つけていく遊び。)
『土御門邸』倫子、鏡や香炉を選んでる。戻った道長に「お触りにならないで。中宮さまのための物なので」と。=「母として、」が「妻」より優先されている。
嫁ぎ先に母が毎日通っている様子に「帝も遠慮されては…」という道長に「お渡りが無いのは私のせいですの?」「知恵をしぼっているのは私でごさいます!」と怒る倫子。道長と倫子に起きている気持ちのズレ…。
(そう、ここに来て気づいたのは、『光る君へ』での悲劇の始まりは「子どもを思う親」の業…によるものの様です。)
(どこの屋敷でも、妻から「母」になって起きるプレッシャーとかストレスとか…。 タイトルとおり「母として」…。)
また貝覆いしている彰子の処へ倫理子来る。彰子は、貝覆い「難しくて出来ません。」と。
帝『清凉殿』で、一人、寂しそう。遠くにセミの声? 
『土御門邸』…? 道長、詮子の背をさする。
詮子が「敦康親王を人質にしなさい。」「彰子に養育させるのよ。」と。
「父と同じことはしたくありません。」と言う道長に「おまえはもう父上を越えているのよ!」と言う姉=詮子。
帝に奏上。「敦康親王のお健やかさが定子さまの鎮魂に。」と言って、帝の了解を得る。=(宮中で)「いつでも親王さまにお会いになれます。」と ( プレミアム付き…みたいだが、帝の「藤壺」訪問を増やす策略完了。)
初対面(…なのに) 敦康親王、彰子になつく。…子ども同士だからか。
いまさらながら、『源氏物語』の光源氏と桐壺帝の最後の妻藤壺との関係は、彰康親王と彰子の相関図。
伊周、舞いの稽古の息子 マツ 君 をひどく叱る。「筆頭に立つ家のための舞か!」と。定子を追い詰めたのと同様に…。
隆家、「左大臣と競うな、官職得るまではひっそりしている方が…。」と。清少納言の訪問に表情変わって伊周!昔の顔。「これを書いてた。」と。
いよいよ『枕草子』。
定子中宮さまの素晴らしい思い出を…「宮中におひろめ頂きたく。」と。
10月9日、紅葉も見える。 夜。 『東上院』『土御門邸第』で。
女院・詮子の『 四十賀 』は、素晴らしい再現。
ご出御の「帝」が 中央 に座られるが、母女院が右に並ばれて。
公卿たちも参列。道長の妻二人が同席…にザワツいていたり。 (だが、高松明子を選んでメアワセたのは女院さま。明子が ( 女院 側に) 座っているのは当然のこと。)( 帝も、藤原でない血筋、いや 皇統の 源氏の参列に意味があって。もあるかと。)
一方その頃、伊周の 呪詛。 呪文を唱え板の「人形」を傷付けている。
道長の二人の妻が同じ場の左右に。(高松明子、道長が倒れた時の倫子にやられたマウント競争…ここで取り返さなきゃ!って意気込み。両妻の心中のバチバチが、庭の篝火のパチパチとして聞こえていたり…。)
左方 に 道長と 倫子、嫡男 田鶴君、左方の朱い衣装で『陵王』。
道長 褒めるが 倫子はご機嫌斜め。
右方 の舞は、高松明子の 巖君。青い衣装で、陵王の対の『納蘇利』。
演目が「童舞」でないすごさ…。厳しかっただろう練習の成果、巌君の
舞のキレ優れていて。(バカ)帝、舞の指南に「従五位下」の位授ける。
泣き出す田鶴。「女院さまのめでたき場であるぞ。」と叱る道長。
史実…と言うか、日記等記録には、帝の褒章に道長は不快を表した。と。 とか、明子さん、本妻さん立てなきゃ!なのに。「私が…」って、そういう性格なんですね、変わらず。
「酒宴に…」のタイミングで、詮子 苦しみだして。
横で倒れた母に思わず寄り添おうとする 帝に 詮子「病の穢れに触れるな!あなた様は帝でございますぞ!」と、「帝たる者」の アルベキ を身をもって教える母。(でも…帝…ダメ男君なのか…)  
病床の 詮子、薬湯を「いらぬ。」と拒む、道長からでも。「私は、薬はのまないの。」 だって、毒を盛った一族の過去の記憶…か?
伊周の呪詛。 道長には…効いているのやら…。
詮子 の遺言「伊周の位を元に戻しておくれ。」「で、伊周の怨念を収めて。お願い道長。」で事切れる。 死期が近い者に(伊周の)呪詛が効いたのか、詮子の思いの力によるものか、道長は呪いから守れれてはいて。
(史料では、詮子女院『行成邸』で亡くなっているのですが、左大臣の穢れ回避策か? 蔵人頭も穢れては…だから、違う理由か?)
不思議な月。縦の三日月?
「今日はいいこ。」なカタコ、かぐや姫読み聞かせ。「月の顔みるのは不吉と。」物語に。「つづきは?」とカタコ。
伊周、位、戻る。(が、伊周の道長への恨みは消えず…。)
帝へ、挨拶と『枕草子』(と呼ばれる様になる「本」) 献上 。「定子さまとの思い出を記したもの」の威力は絶大だろう。
「その評判が道長を、おびやかすことになる。」とのナレーション。
(『枕草子』成立…問題は、ご専門に委ねるべき ( 答えの出ない…) 難しいお話しかと。『抜文』と言うもので、清少納言 自身 が「外に出すつもりなかったのに、うっかりから ( 斉信により) 流布してしまって…」と書いているものが 存在。あやしくて、ややこしい。)
騒ぐカラス。彰子 見る 道長。
為時屋敷、「こたびは何をお書きに」ってイトさんの「この度」は?
いや…「恋文代筆」からの経緯で…か? まひろ「「物語」書いてみる。出来るかどうかわからないけど。」…って。 
通説では『源氏物語』を書き始めたきっかけに 宣孝 の 逝去( により独りになった時間…) が挙げられています。-清少納言 の執筆に触発されたのかな。書き留め始めた「私の殿」(は、ドラマの創作…) の続き? カタコへの 読み聞かせのお話し…かな。もう既にすごく、いろんな凄い出来事体験して来てるし。


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