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尻尾を掴むような

たぶん
存在の不確かさ
わかったと思ったら、わからなくて
君の普通じゃない普通があるよね
簡単に手に入るわけなんかない
つまりこういうことなんでしょ
常識にしっぽなんて振りたくはない
かわいくないから
かわいくないから
かわいくないからね
fishbowl『尻尾』

 10月30日。秋の夜長の遠州は掛川において開催された「掛川百鬼夜行」。そこで観たfishbowlのライブにおける新曲『尻尾』のパフォーマンスはまるで彼岸と此岸が溶け合ったような、そこにいるのにいないような、肉体の躍動でありながら静謐な像であるかのような、両義性と一回性(アウラ)を併せ持ったものでした。本稿はそんな彼女らのパフォーマンスから端を発して考えた「アイドル」と観客、「演じる」こととダンス、「出会ってしまう」ものとしてのアイドル現場、みたいなことを書いていくものになります。だいぶ書き散らし型ですが。それではどうぞ。

※fishbowlは静岡発:メンバー全員静岡出身の4人組アイドルグループです

観る/観られること

 アイドルのライブパフォーマンスを観賞するとき、わたしたちは舞台上での肉体の躍動に歓喜し、時に跳び、光る棒を松明のごとく掲げ、あるいはダンスを真似(振りコピ)、祈りとしてのMIXを唱えたり、あるいは静かに体を揺らす、じっと見つめる、そんな多種多様なあり方でもってアイドルを楽しんでいます。そうした楽しみ方は時に舞台上のパフォーマンス・演者と溶け合ってひとつの演劇的空間を作り上げることがあり、わたしはその瞬間において交わされる演者と観客の視線の交歓、一回性の共有にブチ上がっているからこそ、こうして現場に通っているのだな…と実感しています。

演出家ピーター=ブルックは、著書『なにもない空間』の中で、演劇が成立するための条件をこう述べています。舞台上の人間とそれを見ている人間が空間を共有することが演劇なのだ、と。
 22:06最終アクセス

 ときおりアイドルを実践する人々からは「会場の奥/上まで見えてるよ〜」だとか「あの時あの辺りにいたよね!」という言葉が聞かれたりします。日向坂46のドキュメンタリー映画第2弾の『希望と絶望』においては、1期生の高瀬愛奈さんが「乃木坂さんを観に行った時は遠いなと思ったけど、いざ自分がこうして立ってみるとひとりひとりの顔までしっかり見えると思う」という旨の発言をしていたように、我々が思っているよりもずっと彼/彼女らは観客のことを眼差しており、いわゆる「レス」を放ったりボードやうちわに反応したり、観客の作り出した光景に涙したりする姿はこれまでも何度も観られてきた光景でした。つまりはアイドル現場においては「観客が同じ空間に存在すること」が不可欠であり、ここ約3年間で試行錯誤されてきた無観客での配信ライブなどでは埋まらない、「現場」に転がる関係性こそがより彼/彼女らをアイドルとして輝かせる、と言えるのではないかと思います。
 上述の『希望と絶望』では加藤史帆さんが「無観客ライブは延々とリハをやっているような感覚」「しんどかった」とこぼしていたほか、ついに有観客ライブが再開した際、僅か700人のおひさま(日向坂46のファンネーム)が現れた瞬間に涙をこぼすメンバーの姿が映っていたし、JO1のドキュメンタリー映画『未完成』ではデビュー直後にコロナ禍に見舞われた彼らが約2年越しにJAM(JO1のファンネーム)の前で有観客のパフォーマンスを行う際の嬉しそうな笑顔、そして彼らを待ち望んでいたJAMの言葉が相互に影響しあっている様が見て取れました。

 また「舞台装置として機能する観客」の話をすると、掛川百鬼夜行におけるfishbowlライブでは仮装する観客(そうでない人ももちろんいる)と尻尾のついた新衣装でアクトするメンバーたちであるし、日向坂46においては『JOYFUL LOVE』におけるペンライトの光で虹色に染まった観客席とその中を自らも発光(衣装が光っていた!)しながらメインステージまで歩いていく東京ドーム公演における演出であり、あるいは乃木坂46の29thアンダーライブ3日目で巻き起こったダブルアンコールにおいて、和田まあやさんが観客のホワイトボードの内容を拾って皆で『きっかけ』を急遽アカペラで歌ったことなどが挙げられると思います。こうした空間と相互作用が生み出すものはまさしくベンヤミン的な「アウラ」であり、観る/観られることが生み出す「現場」の磁場と言えるのではないかと。

※クイック・ジャパンにおける私はこーへ氏の連載「乃木坂46、終末のユートピア この地獄を生き抜くためのアイドル批評 第1回 少女たちの『スタンド・バイ・ミー』において、「観られることを前提とした共同体(グループ)は、観客を巻き込むことのダイナミズムでもって物語性・ドキュメンタリー性を帯びていく。」と書いている

パフォーマンス/演じること

 fishbowlの『尻尾』はその衣装および意匠において狐をモチーフとしていると解釈しており(あくまで個人的な読み取り)、歌詞における「存在の不確かさ」「掴んだと思ったら、置いてかれて」「気づいたと思ったら、矛盾もして」「わかったと思ったら、わからなくて」といった表現は「人を化かす」という妖狐伝承からのイメージを借りながら、実像と偶像が重なり合う「アイドル」を表象しているとも読み取れます。狐をモチーフにしているアイドル楽曲としてほかにパッと頭に浮かぶのはBABYMETALの『メギツネ』や日向坂46の『キツネ』が挙げられますが、それらにも「女は女優よ」だとか「顔で笑って心で泣いて」だとか、「ホントの私は見せられない」「女の子は化けてるんだ(いつだって)」「お望み通りに化けるよ」といった歌詞があるように、虚実皮膜に宿る妖しい魅力、といった効果が狐というモチーフには宿っているといえます。

※『キツネ』は歌詞をよく読むと「あ〜康だ…」となります(褒めていない)

 アイドルは「ときに揶揄的に「操り人形」などのメタファーが用いられてきた」(香月孝史 2022:75)りしますが、同じく香月は同書で「おそらく私たちは、アイドルという存在をぼんやりと思い浮かべるとき、その両面性を毅然と切り分けることができず、綯い交ぜの状態で捉えている。」と書いています。この両面性とは主体性と客体性、すなわち彼/彼女らに与えられた楽曲を通じて自らの歌声やダンス、表情でもって自己を主体的に表現しているとも捉えられるし、役割を「演じる」ことという意味での主体の制約が働いているとも捉えられる、ということです。上記を踏まえた時に、『尻尾』は狐という演劇性の高いモチーフでもって「アイドル」が持つ両面性をも楽曲に取り込んだ上で、「演じる」ことを主体的に実行すると同時にそのパフォーマンス自体もまた「演ぜられた」ものであるという両義性が表出している極めて興味深い楽曲であると言えるでしょう。

 そうした「アイドル」であるfishbowlの4人はその『尻尾』のパフォーマンスにおいて、その衣装と掛川百鬼夜行というシチュエーションも相まって、より一層非実在感というか偶像のレベルが高まっていて、それでいて既存の楽曲をパフォーマンスする彼女らは等身大でローカル(4人は出身地が西の人から順番に自己紹介をします)という、ひとつのライブにおいても様々な表情を見せてくれる魅力的なグループです。わりと好きになりたて(本格的に通い始めたのは8月半ばから)ではあるものの既存曲だったりを聴き込んできた中でも少し異質な『尻尾』というこの楽曲は、彼女らの表現の幅を彼岸から引き上げるようなマスターピースとなったのではないかとわたしは思うのです。

現場の力学/「出会ってしまう」こと/「トランスローカル」

 わたしは東京在住なんですけど、なんで今静岡拠点のアイドルグループに通っているかというと、対バンで「出会ってしまったから」としか言いようがないです。もともと通っていた(現在は解散した)あんちろちーというグループ(もともとは「グーグールル」というグループだった)のメンバーである遠藤遥さん(愛称ははるちろ)の生誕ライブにゲストとして呼ばれたのがfishbowlで、その前にTIFにおいて何の気なしに見かけたfishbowlのパフォーマンスがあまりにも刺さったのでいろいろ予習しながら臨んで、そしたら案の定楽曲もパフォーマンスもど真ん中に刺さってしまって今に至ります。推しメンは木村日音(はるね)さん。ダンスがうまくて太陽のように笑う御殿場市出身のグループ最年少(18歳)です。

 このひとが推しメンだ!!とビビッと来たときのことをわたしは「推しメンにしか鳴らない鐘が鳴る」って表現するのが好きでよく使うんですけど、まさしく渋谷asiaで日音ちゃんのダンスと弾けるようなパフォーマンスを観た瞬間に鳴り響いてたんですよね…。こうしたある種偶発的な出会いはライブアイドル界隈における対バンや大規模フェスによって誘発されるほか、いわゆる坂道系アイドルであれば多様なSNSや歌番組、広告や動画などで知る機会が多く、実のところいつ推しメンに「出会ってしまう」かはわかりません。そこかしこに潜んでいる。しかし、こうした偶発的な出会いこそが人生を面白くするというのが持論のオタクなので、いまめちゃんこ楽しくオタクしてます。精神的な意味で静岡がどんどん近い存在になっています。

 好きになったグループがたまたま静岡発のグループではあったものの、その活動は35市町を巡る企画や地元テレビ局で人気スポットを盛り上げる役割を担ったりする一方、東京やその他地方においても積極的にライブ活動を行うことでいわば「日本全国を静岡で染めていく」ことを実践しており、こうした在り方をわたしは「トランスローカル」と呼称したいと思っています。ローカルの文脈を保持しながら各地方とのつながりを生み出し振興していく、そんな在り方をわたしはfishbowlとばってん少女隊に見出している、という点を最後に述べて本稿を結びたいと思います。

 ばってん少女隊は「スターダストプロモーション内スターダストプラネット所属、九州を拠点に活動するアイドルグループ」であり最新アルバム『九祭』では九州各県をイメージした楽曲が収録されています。上記の『御祭sawagi』は熊本県をイメージした楽曲で、阿蘇の大自然の中「八代妙見祭」をテーマに6人の少女たちがお祭り騒ぎしている、というMVになっています。彼女らの活動は一貫して九州を拠点にしつつ「全国も元気に」することを掲げており、今作ではクリエイター陣にPARKGOLFやケンモチヒデフミ、Daokoから没 a.k.a. NGS(Dos Monos)と幅広く豪華で挑戦的な面々を迎えており、さらに公式YouTubeチャンネルではMVメイキングが毎回20分超(!)のボリュームで上がるなど、ローカル×クリエイティブの力を信じている様子が伺えます。

 「アイドル」という表現形態は自由で、何を投げ込んでも「アイドル」になるし、「アイドル」がジャンルやローカル、観客と様々なものを巻き込みながらそれぞれの「現場」という宇宙が成立していく様がわたしはこの上なく好きで、この先もまた「現場」でしか得られない一回性を少しでも刻み込むべく、こうした文章を書いていくんだろうなと思います。それでは!!!!

田島悠来(編著)、2022、「アイドル・スタディーズ 研究のための視点、問い、方法」、明石書店、香月孝史p76-77
私はこーへ、2022、「クイック・ジャパン vol.163」、p164-165
https://cacapo.jp/space/1780/

※『かいわい vol.4』において私はこーへ氏が寄稿した「アイドルとは現代の妖怪・怪異のことである」という論考のタイトルに触発されてfishbowlの『尻尾』から感じたこと書けるかもとなってこの記事を書いたんですけど『かいわい』の感想はまた別で書きます(私信)

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