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私とピアノ


 今日(もう昨日ですが)は、一度買い物に出掛けただけで、特筆すべきものがない日だったので、一度書こうと思っていた、自分のピアノ遍歴を綴っておこうと思います。
 長くなります。すみません。

1 子どもの頃

1 ピアノを習い始めたきっかけ

 私がピアノを習い始めたのは、小学校入学前だったと思います。1年前か、2年前か、正確には覚えていません。
 父親は学校教員で、当時は非常な僻地で勤務していました。勤務地に、某国立大学の地震研究所(?)があり、所長の奥さんがピアノの先生でした。その家にお使いに行って、ピアノを見て、習いたいと言い出したのかもしれません。もしかしたら、親が僻地に住んでいて他の習い事ができないから、習わせることにしたのかもしれません。
 いずれにしても、ピアノを自宅に置くなど、専門家でなければ考えられない(住んでいた周辺地域では)時代だったので、最初はオルガンを与えられて、それでも喜んで弾いていました。
 一番最初のテキストは、メトードローズの子ども版だったと思います。先生からは、卵を実際に持たせて、卵を落とさないような手の形で弾きましょう、と言われたように覚えています。優しい先生だったと記憶しています。 

2 小学生時代

 私が小学校2年に進級するときに、父の転勤により、最初の先生には習えなくなりました。でも、親は次の家でもピアノの先生を探してくれました。
ただし、1年経ったらまた転勤です。そこでも、ピアノの先生は見つけてくれました。
 二番目の先生のときだったか、三番目の先生のときだったか、よく覚えていませんが、テキストがバイエルに変わりました。途中からツェルニーリトルピアニスト、100番も併用しました。また、時期は忘れましたが、発表会も経験して、ツェルニー100番から数曲と、「狩人の合唱」(ウェーバーの簡易版?)を弾きました。
 小学校4年生の頃、大事件が起こりました!家にピアノが来たのです。その少し前に、親に連れられてヤマハピアノの試弾会に行きましたが、家に届いたのはカワイピアノでした。後に、親に尋ねたところ、カワイの方がヤマハより値引きしたからだそうです(笑)もちろん、アップライトでしたが、本当に嬉しかったです。
 小学校の間(何年生かは覚えてませんが)、発表会はもう一度あって、「人形の夢と目覚め」(オースティン)を弾きました。定番です(笑)
 小学校6年進級時にまた父が転勤。また田舎に行きましたが、少し離れた町のピアノ教師が見つかりました。
 小学校卒業時は、バイエル、ツェルニー100番、ピアノの練習ABC、ブルグミュラーなどを終え、ハノン、ツェルニー30番、ソナチネアルバム、そしてバッハインベンションを弾いていたように思います。 
 恥ずかしいことに、私はピアノは嫌いではないんですが、弾けるようになった曲を弾くのが大好きで、弾けるまでに至る過程、つまり練習が嫌いな子どもでした。親に、「そんなに練習しないのなら、もうやめなさい。」と言われ、「そんなに叱られるならもうやめる。」と口答えしては、「なに考えてるの。」と言われてけんかになっていました。今思えば、親の言うことも矛盾しています(笑)
 ただ、その頃は、大体同じ進度でピアノを習っていた友達がいて、その子に追い越されそうになったときは、頑張っていたようにも思います。一緒にピアノのレッスンに行って、あの曲が弾いてみたいね、なんて話すのはとても楽しかったです。

3 中学生以降

 中学生になってからは、小学校6年生の頃から習っていた先生に習い続けていましたが、2年に進級するときに、その先生がピアノ教師を辞めることになり、私は、車で1時間くらいかかる街の先生のところに、月一回父に連れて行ってもらうことになりました。
 その先生は、男性でしたが、とっても厳しくて、ペダルが上手に踏めないときなど、足を踏まれて怒られました。今ではとても考えられないことだと思います。
 中学2年か3年の頃に発表会がありました。弾いたのは、「ピアノソナタop2-1」(ベートーヴェン)です。
 さて、発表会と同じ頃ですが、進路について考えなければいけないことがありました。前にも書いたとおり、父は転勤族で僻地に勤務することも多いため、私は高校では親元を離れなければならないことになりました。でも、そうなれば、ピアノを置けるようなところには住めません。ピアノの先生は、先生のところに下宿して音大か教育大を目指してはどうか、と言ってくださいましたが、正直言って、ピアノを仕事にする力も自信もまったくありませんでした。結局、ピアノは中学でいったんやめることになったのです。
 終了時、やっていたのはハノン、ツェルニー40番(終了)、バッハシンフォニア、ソナタアルバム、そして時々シューベルトの即興曲。
 ピアノは、その後ずっと実家に置いたままになりました。

2 ピアノ休止期間

 高校では寮と下宿、大学進学後はアパート暮らしで、その間ピアノは実家に帰省した折に、ポロンポロンと鳴らす程度でした。
 娘(二女)も、高校までピアノを続けていて、現在はピアノのないところに住んでいますが、時々ピアノをレンタルして練習し、レッスンにも通っています。当時は、ピアノをレンタルするなどとは思いもつきませんでした。(また、あの時代、そういう場所があったかどうかも不明です。)
 就職して数年後、職場の住宅で少し広い家を借りられたので、実家からピアノを引き取りました。ただし、仕事が忙しかったり、研修に数年かかったりしたため、やはりピアノを長時間弾くことはできませんでした。

3 ピアノのレッスン復活から今日まで

1 レッスン復活とまた中断

 就職してから6年目に結婚しましたが、その機に、子どもの頃から使っていたアップライトをグランドピアノに買い換えました。ヤマハG1、弱音のためのハンドペダルがついている、今では販売していないタイプです。結婚新生活のどさくさに紛れて、という感じです。
 同時に、ピアノレッスンを再開しました。ツェルニー40番をもう一度弾き、ほか一曲、例えばショパンのワルツなど、自分の好きな曲をみてもらうというもの。声楽専攻の若い女の先生で、よく「歌うように。」と注意されていました。
 週に一度のレッスンは楽しかったのですが、1年ほどして長男を妊娠、中断せざるをえませんでした。そして、その後、3人の子を出産して子育て、何年も何年も、せっかくのピアノはインテリアと化していました。

2 再度の復活と仲間との出会い

 次に、レッスンを再開したのは、三人目の子が小学校に入ってからでした。3人の子をヤマハの幼児科に通わせていたところ、そこの講師にF先生を紹介していただき、今でもお世話になっています。
 F先生のところでは、本当に私の好きな曲をみていただいています。これまでみていただいた主な曲は、イタリア協奏曲(バッハ)、アラベスク、飛翔、子どもの情景、クライスレリアーナの一部(シューマン)などなど。特に、イタリア協奏曲は、子育て中に、ブーニンの演奏を聴いて、この曲がいつか弾きたい!と心に思っていた曲です。
 また、ピアノのソロ曲ばかりでなく、職場で声楽を習っている二人の友人と出会い、伴奏を引き受けるようになりました。月に一回程度、集まっておしゃべりしながら練習し、年に一回、身内や親しい友人を呼んでミニ演奏会を開きます。その中で、オペラや歌曲、いろんな音楽に触れることができました。
 仲間との演奏会の会場のオーナーが伴奏ピアニストのM先生です。とても素晴らしい伴奏をされるので、ミニ演奏会で披露する曲をみて頂くようになりました。

3 現状

 今も細々とピアノは続けています。この履歴を見てお分かりのように、紆余曲折のあったピアノライフで、今練習している曲をきちんと弾くような実力はありません。ただ、もう初老に達した今、とにかく楽しんでピアノと向かい合っていきたいです。
 残念なのは、声楽仲間の一人が病気となり、なかなか3人そろっての練習、演奏会が開けないこと。これも、前のようにとは言えないものの、いつかまた一緒に音を奏でる日がくることを信じています。


うちのピアノです。
30年以上の
付き合いになります。

 


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