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たくさんのバースデーのお祝いの言葉ありがとうございます。 仕事机の右側に100台以上のカメラアルプスが形成されていて、その1番上にあったカメラを手に取ったらこれでした。 中学1年の時ですから、12歳ごろからずっと使っているカメラです。当時はすごく高かったな。このカメラを1台手に入れることで、人生の目的と言われていた頃もありました。 昔の丸ビルにあったニコンのサービスセンターに通って、将来はニコンエフのカメラを撮影する広告写真家になりたいなどと夢見ていました。 その夢は
皆さんバースデーメッセージをたくさんありがとうございます。感謝感謝。 後期高齢者の言うチューバとなって、いろいろなカメラをムービーで紹介しているのですが、仕事机の右側にカメラが100台位堆積したカメラアルプスができてしまいました。 バースデーカメラと言う意味でそのカメラアルプスの中から1台をセレクション。 ウィーンに滞在していた時、シュツットガルト製のコンタックスもよく使いました。135ミリのレンズをつけて撮影するモチーフは、建物の上のほうにある天使のスカルプチャーでし
10年近く前になるが、ニューヨークタイムスのオンラインのウェブマガジンがあって、そこに若い頃から晩年に近くなったロバートフランクのいろいろな写真が掲載されていた。
昨年の春のギャラリーバウハウスの写真展の時に、私のトークショーに来てくれた人である。しかも2回。トークショーに両方とも来てくれて、2度目のときには私のポートレートを手渡してくれたので嬉しかった。 20年間看護のお仕事をしていて、今ではその方面のスペシャリストで大学でも教えているそうだ。それで最近東京の中野方面に引っ越しされたそうだが、いきなりカナダに居住することになったので私も感心しているのである。 池を見ると言う名前が哲学的でよろしいね。しかも彼女のトロントで開催された
盆さんと言うのは古い友人であって、私の70歳のときの記念パーティーにもご夫婦で来てくださった。 盆さんの写真の腕はそこそこ優秀なのであるが、それよりもこの人物を個性的にしているのはカメラの特殊メイクと言うスペシャリストの存在である。映画の撮影などで特殊メイクと言うのは非常に重要な役割であって、私はヨーロッパの映画を手伝ったことがあるが、特殊メイクの人と言うのは尊敬されていたのである。 盆さんがスタートしたユニークなカメラの特殊メイクを、彼自身が名付けて 偽貫禄と命名したの
私の写真はストレートフォトグラフィーであると言う認識が20歳の頃からあったから自分の写真を印刷するときは1ページに1枚で周囲に大きくマージンを入れて印刷を支持するというのが普通のやり方であった。
最近では、フィルムから完全に撤退して、化粧品屋、健康食品の方向に向かっている富士フイルムである。
新書サイズのユニークな写真集。東京ニコン日記である。四半世紀前に約3000枚の東京のプリントを作って、その中から700点位を選んで分厚い新書版の写真集になった。 その頃の私の考えは、この新書版の写真集は、きたるべき、東京の写真集の予告編と言うつもりだった。それから四半世紀が経過して、ハードカバーの東京の写真集Today Tokyo が昨年出版された。 サイン会等で東京ニコン日記を持参して、サインを求める人を私は尊敬の目で見ている。私の仕事を1番正しく理解してくれている人だ
1955年に当時の皇太子殿下がアメリカ経由してヨーロッパに旅行なさったときの持参したカメラはニコンS2、レンズは5センチEf 1.4が付いていた。随行のカメラマンが使っていたのは、その頃は4 × 5インチのスピードグラフィックである。つまり皇太子殿下が1番明るいレンズを持っていらしたと言うわけだ。
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10年近く前のギャラリーバウハウスで展示したそしてなおかつポストカードになった作品がこれである。確かソ連製コンタックスキエフのゾナーレンズコピーの5センチで撮影した。
1947トータルで3つの異なるシリーズがある。1番最初のモデルは、まさにスイスの時計のパーツメーカーが作った存在感があって、その音なども時計の音がするのである。
アルミを削りだした。フィギュアのジェット戦闘機はウィーンの蚤の市で買ったものだと思っていた。ところが私のもっと古い記憶の引き出しから取り出されたのは、数年前にコロナで亡くなったプラハの友人がこのフィギアを見て、これはかなり腕のある工員が暇なときに、手遊びに作ったものだねと言うフレーズが思い出された。
亀戸駅北口から都営バスに乗って日暮里まで行くと言うのは結構長いバスの路線である。その中でかなり興味がある。バスの窓からの風景がこのショップであった。