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チョートクのカメラノート📷🎥📹

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2022年6月の記事一覧

文京区音羽3丁目大塚警察署の前右折して行くフィアット500

1966年の2月の半ばであったと思うけれど大学1年生だった私は不躾にも高梨豊さんの家に夜お邪魔したのである。もちろん電話でご都合をお伺いしておいたのであるが、今思うと不思議なのは当時のカメラ雑誌の年にいっぺん出るアニュアルには巻末に写真家のアドレスと電話番号が記載してあったのだ。今から考えるとありえないことであるが、私も1970一年か72年に初めて私の住所氏名と電話番号がカメラ雑誌のアニュアルに掲載されて何か中途半端な自分のプライドが満足させられたなと言う記憶がある。

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春日 昌昭 / Masaaki Kasugaのコンパスに導かれて赤羽を撮影に行くKallowide

春日さんが東京オリンピック前後の東京の街を撮影していてそれが高梨さんと並んで私が東京を撮影するときのポイントオブビューになっているのは重要なことだ。高梨さんの仕事がどちらかと言えばイメージの狩人と言うのに対して春日さんの仕事はスクラップの拾い屋であるからおのずと視神経の構造が異なるのである。しかし高梨さんと春日さんを比べてみるとストレートフォトグラフィーに近いのは春日さんの方なのだ。

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寺岡製作所が作ったAuto Tera Superは動かない方が安心していられる

昭和30年代後半にはかりで有名な寺岡製作所が制作したモータードライブ式の35ミリレンジファインダカメラである。この種類のモータードライブ式の35ミリカメラの元祖は言うまでもなくドイツはデュッセルドルフのOtto Berningのロボットである。これは24ミリサイズのスクエアフォーマットのカメラでドイツ空軍が第二次世界大戦中の偵察用として作ったのだ。空中戦をやっている縦画面とか横画面とか考えている暇は無いからスクエアフォーマットなのであったのだろう。

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初期のブラックコンタックスにごく初期のテッサーレンズを付ける

1932年に登場したいわゆるブラックコンタックスは同じ時代のライカに比べると人気がないのか10年位前までは結構安かった。それでオンラインネットで登場すると手に入れていて気がついたらサッカーチームの数位の数が周辺に集まってきた。

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パープルな夢。こういう色のレンズコーティング裏にはしびれる

中国製のフイルムを使う一眼レフを二台持っている。これは30年位前に銀座のカメラ屋さんで手に入れたもので中国の人が売りに来たらしい。オリジナルボックスから説明書から全部がついていた。値段は結構高かった。このカメラはパールリバーと言うのであるが、1980一年に初めて中国に行った時は広州出会って香港から高速モーターボートに乗って行った。その川の名前がパールリバーなのである。

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香港が中国に戻されたのを記念する1,997年の中国製のズームレンズ

カメラジャーナルと言う個人雑誌をやっていた時に、友達のよしみでスーパースターの坂崎幸之助さんにいろいろなことをお願いした上であるがそれを快く引き受けてくださったのは本当にありがたいことである。

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30年前に比較してこのカメラの値段がほぼ半額

日本カメラで出していた私のクラシックフィルムカメラの3冊の本があるがその1番最初に出した第一部の中にこのカメラコルゲンコーワのワイドカメラが入っていた。これがなぜ有名になったのかと言うとオリンピックの前の東京を撮影した春日さんと言う優れた写真家がいて彼の愛用していたカメラが1台のこのカメラなのである。

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フライトレーダー24で緊急事態で引き返す飛行機を観察する6/23(木)

別に外国に飛行機で行かなくてもフライトレーダー24で世界中の区域の体験ができるのはありがたい。Squark7700と言うのは飛行中の飛行機が緊急事態になったときの非常信号の事らしいがそれをセットしておくと意外とこの事象が多くて夜中に寝ていてもしょっちゅうアラートが聞こえるのが不思議である。

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Wien 9Bez Wahringer Strasseの双眼鏡の壁画の記憶

1973年5月にウィーンに到着してしばらく友人の家に居候していたのがウィーンの第9区と言うところで旧市街のすぐ北に面している地域であった。ベートーベンは相撲雄汁何回変えているがいつも貧乏であったから賃料の安いところばかりで、旧市街と言えば1番北のはずれの城壁の上みたいな所だった。実際にウィーンに住んでベートーベンの手紙集などを見ていると彼の暮らしぶりがわかって面白い。

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ライト式飛行機がグライダーだった頃

以前この写真をアップしたことがあるが2002年の10月10日の事である。ライト兄弟のお兄さんのほうは写真術に長けていたので弟がパイロットとなってエンジンが搭載される前のグライダーに登場しているところを撮影した。このガラスプレートを見ていいなと思ったのはずいぶん前の話であるが右腕が何かのショックでガラスが欠けているのである。そういう不完全な写真である方が人類のアビエーションのごく初期の危なっかしい感覚が再現されていると思う。

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19世紀終わりのパルテノン神殿の周辺の街並みは今とかなり違うことがわかる

500ページの佃日記の最初の頃にアテネに行ったことが書いてある。アテネオリンピックの前の年であって、日本人の感覚だと私でも街中を歩いて奇妙に思ったのはアテネオリンピックを成功させようなどと言うポスターの1枚もみなかったことであった。それで私のギリシャに対するイメージが非常に良くなった。

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レキシントンアベニューからChrysler Buildingを撮影。ベストアングルは1インチ位しかない

40年前のニューヨークの暮らしで全般は49丁目の安ホテルに住んでいた。ちょうどミュージカルでフォーティーセカンドストリートと言う出し物が流行した頃だった。その頃の42丁目と言うのは結構けんのんなところであって、ホールドアップされたときの用心にシャツの胸のポケットに20ドルを入れておけとかよく言われていた。住んでいたホテルが7番街と8番街の48丁目なのでいろいろ用があって42丁目の8番街の交差点にはよく行くことがあったらそこに結構当時としてはマンハッタンで1番危険な場というのが

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1960年代の東京のビビットなスナップ写真を撮影したのが春日さんで彼の愛機は自分でペイントしたブラックのKalloワイドだった

春日さんのファーストネームがいまだに覚えられないのである。オリンピックがスタートする以前すなわち1960年代初めの変わりゆく東京の風景を春日さんは類まれなスナップシューターとして記録していっきょに有名写真家になった。ウィーンに住んでいた当時よく私が思い出していた春日さんのスナップショットで忘れられないのが昔の赤羽の街並みなのである。

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