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もう一度カメラの話をしないか? 後編

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記事一覧

もう一度カメラの話をしないか?その12 お茶の秘伝書、南坊録に登場するお茶会の記録と出された料理の記録は、現代の我々のカメラレンズ選びそのものである。

『南方録』(なんぽうろく)は、博多の立花家に千利休の秘伝書として伝わった古伝書。ただし、同時代を著した書籍としては内容や用語等に矛盾点が多数指摘され、現在、研究者の間では元禄時代に成立した偽書として認知されている。かつては、「わび茶」の概念の形成に大きな影響を与えたと考えられてきたが、現在では実際の成立年代である、江戸期の茶道における利休回帰を裏付ける資料として捉えられている。ーーー以上ウィキペディアより引用。

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もう一度カメラの話をしないか?その13 白岡順のニコンF3には常に50ミリのレンズしかついていない。彼とは人生で前後1度きりパリであった。

白岡順は好きな写真家である。人生で1度だけ白岡にあったのは彼がニューヨークからパリに引っ越してきた時だった。記憶が曖昧なので白岡の年譜を調べてみたら1979年にパリに移動している。だからその時だと思う。その白岡が20年もパリに住んでそこで作家活動をしてヨーロッパでは非常に有名な作家になった。ところが日本ではマイナーなギャラリーとかカメラメーカーのギャラリーで写真展をするだけなのが残念である。これは単純明快なことでヨーロッパの写真に対するスタンスと日本の写真ギャラリーに対する存

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もう一度カメラの話をしないか?その14. 高梨豊の2台のライカ

私にとって高梨豊は憧れの写真家だった。高梨さんが今日銀座通りを歩いていたとか、高梨さんがシトロエンに乗って音羽通りを走っていたと言うゴシップというか噂そのものはインターネットがない時代にそれこそ光の速度よりも早く我々カメラ小僧の間に伝達されたのであった。その高梨さんが作家としてデビューしたのはこれはいろいろな説があるであろうがやはり1966年1月号にカメラ毎日の関東煮32ページにわたって掲載された名作、東京人であろう。

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もう一度カメラの話をしないか? その15 東松照明のニコンエフとキャノンペリックス

私は東松さんの追っかけであったから先生が迷惑を顧みずよく新宿の事務所に遊びに行ったものであった。岩波書店の世界と言う雑誌に東松さんが都電をテーマにしたトップのモノクロページを掲載していてそれを見せていただいた。今にして思うとあの頃は東京はまだ都電がちゃんとした交通手段として活動していたことがわかる。唐松さんはそのシリーズをニコンエフに28ミリと50ミリと105ミリで撮影していると聞いた。

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もう一度カメラの話をしないか?  その16 中平卓馬のファインダープリズムが腐ったキャノンF1

中平さんには私はかなり前から面識があった。1960年代の後半に東松照明さんの新宿の仕事場にお邪魔した真夏の暑い日にそこに現れたのが現代の眼編集部だった中平卓馬さんであった。たまたま私は唐松さんに見せるポートフォリオを持っていたので、中平さんにも一緒に診てもらった。中平さんが指し示したこれが1番いいと言う写真は自衛隊の入間基地で私が撮影したアメリカの大型輸送機を21ミリの広角レンズで撮影したHigh Keyな作品であった。

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もう一度カメラの話をしないか?その17  石元泰博のブラックペイントのライカM2、そこから剥がれたブラックペイントの奇跡のかけらを私が大切に持っている。

石元泰博のコレクションと彼のカメラと彼が生活していた頃の家具意識が高知県立美術館の所蔵になったと言うのを聞いたのは何年前だったか。その1部が美術館で展示されるようになったと言うので私は慌てふためいて出かけたのである。初めての高知であった。コーチの街は東西に非常に長い子殿がサービスしていて高知県立美術館はその自然のやや東寄りの場所にあった。ちょうど梅雨の頃で激しい雨に降られて私は美術館に向かった。

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もう一度カメラの話をしないか?   その18  コンポラ写真の冒険者、下津隆之のニコンS3そしてミノルタオートコード。

アメリカのネイサンライオンズがコンテンポラリーフォトグラファーズと言うスクエアな小さな写真集を出したことで60年代後半に世界中に火がついたわけである。この写真集はハードカバーの薄っぺらなものであるがブルースデビッドソン、ビーフリードランダー、など当時の新しいフォトグラファーの仕事をまとめた写真集であって1970年代のわれわれ写真家を目指した青年の教科書のようなものであった。私も銀座のJena書店に買いに行ったのである。

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もう一度カメラの話をしないか? その19 鈴木清のニコンS3ではあるが、彼とはカメラ談義をしたことが1度もない。もっぱら酒と人生論だった。

鈴木清は若くして亡くなった。鈴木清はロバートフランクの良き友人であった。ここが大切なポイントなのである。私などはロバートフランクの追っかけであるが、鈴木清は友人なのである。だから鈴木の下にはロバートフランクから手書きの郵便がよく届いていた。なぜそんなことになったのか?鈴木靖にめんと向かってそんなことを質問した事は無い。結局1つだけ確かな事は鈴木清の仕事にロバートフランクが惚れたと言うこと。これ以外に理由はないだろう。私の場合はギャラリーモールの津田に頼んで私の写真集をロバート

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もう一度カメラの話をしないか?   その20   土門拳の大型カメラSinnarのレンズのフードがわりに使われていた渋うちわが写真をよくしたと言うのは既に伝説の領域の話だ。

1935年 - 8月1日に電車内であくびをする幼い兄弟をダゴール付きアンゴー8×10.5cm(手札)判でスナップ撮影した「アーアー」が『アサヒカメラ』10月号で月例第一部(初心者)二等に初入選した[2]。またその号に出ていた名取洋之助主宰の第2次日本工房の求人広告に応募、名取のもとで報道写真を撮り始めた[2]。ーー以上ウィキペディアからの引用終わり。

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もう一度カメラの話をしないか?  その21   山崎博のトプコンのTLRプリモフレックス。リアリティーそのものよりもコンセプトで写真を撮ると言う意味で、彼の仕事はむしろ頭脳労働者なのである。

山崎に最初に会ったのは彼が有名になるずっと前である。銀座1丁目で私を呼び止めたジーパンにピンクのシャツの男がいた。東京光学が作った高性能な2眼レフプリモフレックスを持っていた。それが山崎博であった。私はその時点で山崎の事は知らなかったが彼は私のことをカメラ雑誌か何かで知っていたのであろう。

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もう一度カメラの話をしないか?  その22. 森山大道のペンタックスの使い方に刺激されて、当時の写真家志向の青年はみんなペンタックスを買った。

日本の写真家で東京の路上で1番遭遇する率が高いのは、森山大道である。中野駅北口とか新宿の曙橋の下の迷路のようなところで偶然に森山さんに遭遇するのである。この前中野駅の北口で森山さんの姿を見かけた時はいきなり声をかけると失礼にあたると思って私は彼の動きを見ていたら角のトイレに入っていった。ご老齢であるからそのまま倒れられたりすると困るので20分経過して森山さんの姿が見えなかったらトイレに入って声をかけようと思っていた。心臓発作何かでそういう間一髪のところで助かった人と言うのは私

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