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鈴懸の木の下で

ふるさとの鄭州の街路樹には、スズカケノキが多い。五月にはすでに生い茂り、片側一車線の狭い道なら、覆い被さるように空を遮ってくれる。夏場は特にありがたく、カンカンの日照りでも、その下にいれば、時折り吹き抜ける中国内陸部ならではの乾いた風と、サラサラの葉擦れ音で、暑気が一気に飛び去った。

道路を覆うスズカケノキ。タイトル画像もそう

鄭州のシンボルとも言えるこの木だけど、あまりにも本数が多いため、「角のあの木の下で待ってるから」「ああ、必ず行くよ」などというロマンチックな会話には登場してこない。その代わり、ぼくが日本の中学校から戻り、久しぶりに小学校の旧友に会おうとしたとき、こんなふうに約束したものだ。

「XX通りに沿ってずっと自転車を走らせれば、そのうちスズカケノキがない大通りに出る、その通りに出たところの角で待っていてくれ」

案内の通りに行ってみると、ぼくより頭ひとつ分高いよく知っている男の子が、自転車に跨って待ってくれていた。そのまま木陰に移動し、食事するでもなく、ゲーセンにも行かない。立ち話を数時間続ければ解散して帰宅。そんな約束を、何度も繰り返した。

木の上には、人間世界を見下ろす住民もいる。いつかの夏休み、新しいクラスに完全に馴染んできた頃、十数人で一緒に郊外の公園に出かけたことがあった。もちろん全員自転車で、遠回りしてでも並木道を探した。その道中、ぼくは仲のいい友人と横に並んで、歓談しながら漕いでいると、頭のてっぺんに何かが落ちたような気がした。

「おい、ちょっと俺の髪の毛見てくれ。まさかあれじゃないだろうな」
「どれどれ...うわー!鳥の糞だ!逃げろ!」

さしもの友情が糞尿によって簡単に崩れ去ったことに唖然としていると、優しい女の子がティッシュを出した。彼女はまるでテストに臨むような真剣な顔つきで、モデルをやっていてもおかしくない長い手足を伸ばして、ぼくの髪の毛を丁寧に拭いてくれた。そういえばこの子のカンニングを手伝ったことがあるのを思い出し、情けは人のためならずとはよく言ったものだと感心した。

逃亡した友人は今広東に行き、そこで働き家族を持った。優しい女の子はさらに南の香港に行き、二人ともふるさとには滅多に帰ってこない。その代わり、今でもたまに鄭州以外のところで小規模の同窓会をやるという。そういったものに呼ばれなくなって久しいぼく、というより、呼ばれても行きたくないから断ってきたぼくは、同級生たちの近況を知ろうと、優しい女の子に連絡を取った。

「俺いま鄭州だけど、誰か帰ってきてる?」
「あんた帰省したの? 嘘でしょ!」

ひどい言われようである。しかし優しい彼女は、知っている限りの情報を教えてくれた。

「あたしがよく連絡を取っているのはあの二人だけ。彼女たちは帰っていないのは確か。ほかは何も知らないの。ごめんね」

メーデーで五連休だというのに、誰も帰らないのか、それとも、ただ単に知らせていないだけか。鄭州を離れて二十年。これが普通なのか、たぶん、普通なのだろうーー人のことを言えるぼくじゃないけれど。

仕方なく、持て余した時間を、すべて地元の味を楽しむのに回した。羊肉燴面、牛肉拉麺、羊肉スープ、荊芥のサラダ、ヘチマのツルの冷菜、豚角煮の焼きパンサンド。増えた体重はあとから減らせるという根拠のない自信で、ぼくは家に近くの店で食べまくった。家の前の道路も、もちろんスズカケノキのなわばりだ。

羊肉燴面。羊骨スープに超幅広麺、具材は春雨、押し豆腐の細切り、うずらの卵、塩茹でした羊肉のスライス数枚が一般的。パクチーは不可欠
牛肉拉麺。蘭州系は透き通ったスープだが、鄭州のは脂ぎとぎと系。スープを飲み干せば唇が牛脂で白く染まる。薬味はパクチーとニラ
羊肉スープ。大量の肉と少量の羊モツ入り。焼きパンと一緒に食べる。モツだけのバージョンもある
上が「麺筋」と呼ばれるグルテンミート、ニンニク胡麻ダレで和えてある。下がヘチマのツルの冷菜。白胡麻、塩、酢醤油などで味付け。シャキッとした歯ごたえにほのかにハッカの香りがしてクセになる
豚角煮の焼きパンサンド。「肉夾饃(ロージャーモー)」。ハラル版は中身が羊肉
荊芥というシソ科の植物の和え物。卵とじにしてもおいしい

顔を上げると、まだ五月だというのに、すでにこの木の名前の由来になった鈴状の果実がいくつかぶら下がっていた。晩秋になれば、果実が落下して割れ、なかから白と茶色の糸くずのような種が飛び出してくるが、いくらなんでも早すぎる。

「最近のスズカケノキはみんなこうなのか? 果実つけるの早すぎるでしょ」

帰省三日目にして完全に遠慮のなさを取り戻したぼくは、道端で串焼きを食べている知らないおじさんたちに話しかけた。おじさんはひどい訛りで答えた。

「そういうもんじゃねえの」
「そうかな?だってまだ五月だよ。半年くらい早いぞ」
「どんなところにも変なのがいんだよ」

そうか、非科学的もいいところだけど、ぼくは納得した。

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