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毛沢東と中国(下)(銭理群)

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銭理群 著
阿部幹雄、鈴木将久、羽根次郎、丸川哲史 訳
青土社2012

(上はこちら)

1966年に始まった文化大革命の目的は、初めは毛沢東が自身を凌ぐ影響力を持ちつつあった政敵を追い落とし、彼自身が中国のあらゆる事象を統括する絶対的な強権体制を築くことにあった。その計り知れぬ野心の支えとなっていたのが、毛沢東が信じて疑わない共産主義というユートピアであり、それを中国・全世界に広めていかなくてはならないという使命感であった。普通に考えてみれば、一人の人間がすべてを決める体制はたとえ王朝時代の中国においても不可能で、必ず各地方や階層の官僚の助力がなければならないことがわかる。しかし毛沢東はまさにそうした官僚が自身の理想である共産主義革命を阻んでいると考え、官僚システムを含む社会構造全体を破壊し、再建しようとしたのである。故に、毛沢東によって官僚を攻撃することの正当性を与えられた民衆は、当時の中国に確かに格差が広がり、特権階級ができあがっていたという事実も手伝い、手のつけられない暴徒となって、彼らが既得権益者と見做す人たちを見境なく吊し上げにしていった。

大躍進と飢饉の犠牲者が主に農民だったことと異なり、文化大革命は首都北京で真っ先に始まり、全国の都市に飛び火した。ぼくの生まれ故郷に赴任し、官僚として着任した祖父も、既得権益者として批判された一人であった。ぼくはかつて、祖父が書き残したものがないかと遺品を探したが、残されていたのは吊し上げの最中に書かされた反省文のみで、彼の本当の思いを伝えるものはなにも残っていなかった。そんなものがあればなおさら罪状が重くなるため、自分から処分したのか、あるいは紅衛兵に見つかり焼かれたのか、いずれにしても、そうした個人の思想や記憶を物理的にすべて消し去り、思考の基軸と価値判断基準を「毛沢東ーー共産党」の一本に統一しようとしたのが、文化大革命の一側面である。

多くの人は強権と暴力に屈した。だが、それを責める気は全くない。明日も無事に太陽を拝められるかどうかの暮らしにおいて、信念などというのは手の届かぬ贅沢品だ。銭理群が記録し称賛したように、あくまで自分の思考を貫こうとした知識人と青年もたしかにいたが、彼らは絶対的少数であり、銭氏のような現代の学者が苦労して掘り起こさなければならない存在である。絶対的多数の国民は、毛沢東に操られるか、「こんなの間違っている」と思いながらも、大海原を漂う小舟のように為す術もなく流されるしかなかった。

その結果として出来上がったのが、文化大革命終息後も続く「毛沢東文化」というものであった。毛沢東個人の理論をまとめたのが「毛沢東思想」で、毛沢東の深遠なる影響を受けて形成された中国社会の底流をなす思潮が「毛沢東文化」である。銭理群は次のようにまとめている。

「事実上、毛沢東思想は大陸の中国人の思考様式、感情様式、行動様式、ひいては言語様式までを根本的に変えた。これは極めて全面的・徹底的なことであり、民族の精神、性格、気質にも烙印を押すことになり、ある時代の文化・精神というべきものを形成させた。これを事実のままに『毛沢東文化』と呼ぶしかない。中国古来の儒道墨法など以外に、中国大陸にはさらに毛沢東文化というものが存在するのだ。(中略)たとえ毛沢東の時代を体験していない、毛沢東の著作を読んだことさえない大陸の若い世代にもその影響がある。なぜなら、毛沢東文化は民族の性格に深く浸透しており、徹底的に整理されたこともないため、その影響が代々続くのである。」

したがって、今現在の中国政府がとっている行動や政策の多くは、「毛沢東文化」の影響下にあると見ることができる。外部に対するヒステリックなほど好戦的な姿勢、内部での共産党の権威への病的な固執、「弱いもののために」と口では言いながら、実際はその弱いものを搾取することで実現された経済成長などなどだ。そうした雰囲気のなかで育ってきた新世代の中国人も、程度の差こそあれ、皆どこかこの基本的な特徴を受け入れている節がある。銭理群はこの本で毛沢東文化を批判・反省しなければ中国は前に進めないと断言し、一部の活動家に好意的な評価を行ったものの、鋭敏な彼は同時に、そうした活動家の言論や行動から「まるで小さな毛沢東」のようなものを見出しており、そのことを嘆き、「毛沢東文化」の影響の強さを再確認していた。

それなら、ここまで読めば、読者は当然「毛沢東文化」とは一体なんぞやと聞きたくなるだろう。「毛沢東文化」なる用語は第一章から出てくるが、銭理群はそこではなにも定義しておらず、ただ影響の深遠さを強調するのみにとどまっている。その後の事件の回顧や人物評に定義が散りばめられていることもなく、結局本書全体を覆うほど重要なこの概念は、最後まで内実を伴うことなくふわふわと漂うだけで、その仰々しい名称に見合わぬ完全な見掛け倒しになってしまった感さえある。

そもそも、「XX文化」ほど定義が難しい用語はない。「日本文化」「中国文化」「若者文化」、似たような言葉は数多くあれど、どれもこれも内実はあやふやだ。「〇〇はXX文化だ」と言うとき、ぼくたちが想定しているのは多くの場合ごく限られた人数の集団が持つ一連の言動や思考様式であり、それを直ちに「日本人」「中国人」「若者たち」という膨大な数の人間の集まりに適用するのは土台無理な話である。かといって、個々の集団を研究し尽くしすべてに共通する特徴を見出すのは、労力から考えてほとんど不可能である。したがって「XX文化」という用語は必ず問題含みとなる。銭理群ほどの大学者ならこのことを当然理解しており、そのためここで問うべきは彼の用語が適切かどうかではなく、なぜそのような用語をあえて使うのか、ということである。

銭理群は本書で「文化」を使った理由を語っていないが、上述の引用に見られる「大陸の中国人」「全面的・徹底的」など「中華人民共和国全体」を指し言葉は随所に見られ、そのことから彼の意図の一端を推し量ることが可能だ。すなわち、「XX文化」のあいまいさ、ブラックホールのごとくどんな現象をも飲み込む統一性のなさを承知の上で、彼はあえてこの言葉を使ったのであり、「毛沢東以降現在までの中国が毛沢東の影響下にある」ということを指し示すのに最適だと考えたためだ。「毛沢東文化」を定義しないのは彼の不覚ではなく、あまりにも多くのことを内包するため、言葉で制限するような定義をすることがそもそも不可能だからである。定義すれば必ず何かがその定義からこぼれ落ちる、しかし、銭理群の考えでは、現代中国で「毛沢東文化」からこぼれ落ちるものはなにもないのである。

そうだとすれば、毛沢東文化を批判することは至難の業となる。なぜなら、批判は言語を通して行われなければならないが、すべてを包み込む毛沢東文化は、中国人の言語をも変えてしまっている。たとえ現状に不満や疑問を持つ人間がいても、中華人民共和国で生まれ育った以上、学校教育から効果的な批判を実現するための言語を学び取ることは不可能であり、新たな言語を自分自身で編み出すか、外部から導入してくるかしかない。そしてたとえ彼/彼女自身がそのことを成し遂げても、今度はその新鮮味のある言語が一般人に届かないという難題が立ちはだかる。改革開放以降、天安門事件を頂点として、知識人からは何度も政治改革を求めるうねりが起きていたが、いずれも国民的な運動に発展することに至らなかった。その最たる要因が、この言語の問題であろう。

では、中国はこのまま毛沢東文化の陰で生き続けるしかないのか。世界は毛沢東文化に染まった中国を相手にし続けるしかないのか。そのことについては、次の本を読む際に触れてみたい。

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