見出し画像

新中国の人間観:歴史人物を中心として(呉晗)

呉晗 著
佐々間重男、小林文男 訳
勁草書房1965

呉晗ウーハンの名前は、日本では殆ど知られていないが、中国では高校を出た人なら皆一度は聞いたことがあるはずだ。なぜなら、歴史教科書の文化大革命に関する記述に、かならず次の出来事が登場するからだ。

1965年11月10日、上海の『文匯報』が姚文元の記事「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、この劇が「毒草」であると指弾した。記事は『人民日報』に転載され、毛沢東にも称賛された。このことが、文化大革命の序幕となった。

この『海瑞罷官』の作者こそ、本書の著者呉晗である。海瑞は明代の清廉潔白で名声を博した官僚であり、大岡越前ばりの名裁判エピソードが多数残っている。『海瑞罷官』は、平民の無実の罪を晴らし、悪徳官僚を懲らしめた海瑞が、陰謀によって罷免・投獄されることになり、罷免の直前に悪徳官僚を処刑した話となっている。そんな典型的な勧善懲悪ストーリーがなぜ「毒草」として批判されたのかは最後に述べるとして、まず本書を見ていこう。

本書は訳者の二人が呉晗の既刊著書から数編を選び、再構成した本だ。明代の歴史を専門とする呉晗は、戦前に緻密な歴史研究を行い、かの胡適にも称賛されたほどだが、生真面目な学術論文はこの本に一本も収録されていない。というのも、新中国発足後の呉晗は官僚政治家に転身し、以来10年間研究をしておらず、本書刊行の時点では北京市副市長の要職にあった。そんな彼が大躍進運動に刺激されて、「自分の限られた歴史知識でもって、いささか歴史知識の普及とその仕事をしようとした」と、数年の間に三冊もの文集を出した。本書に収録された文章は、すべてこの三冊から選ばれている。つまり、はじめから濃厚な政治色を帯びた文章たちである。

気をつけるべきは政治色だけではない。本書のタイトルは呉晗の手によるものではなく、訳者たちが「日本の皆さん、新中国はこんな人間観を持っているんですよ」と伝えようとした親切心から付けられたものだが、読了した人間として言わせてもらえば、どうしてもミスリードの意図が見え隠れする。実はぼくもこのタイトルに騙されてしまった。荘子、李卓吾と読んできて、さて毛色の違う中国人の人間論はないかと探し、この本に出会ったわけだが、いざ読んでみると、人間そのものがどうなのかを正面から論じるのではなく、サブタイトルの「歴史人物を中心として」が示すように、歴史人物をいかに評価するのかを思考した本である。

しかし、騙されはしたが、決して読むのが無駄ということにはならない。濃厚な政治色、歴史人物を通して理想の人間像を打ち立てようとしたところに、あの時代のーー今もそうだがーー中国の特徴がよく現れ、さらに呉晗の運命も相まって、大変興味深く読めたからだ。昨年の中国共産党の「歴史決議」が注目されたように、中国は古代より、前に進むために必ず歴史を総括し、その評価について少なくとも見かけ上の合意を形成し、諸々の出来事と人物の価値の優劣をつけることが必要であった。どのような人物が立派で、その判断基準がどこにあるのかを明らかにすることで、この時代に求められる人間像を浮かび上がらせる。その過程において重責を担うのは往々にして歴史家であり、彼らは歴史を編纂・記述・論評することによって、自身の、あるいは政権の倫理観・価値観を世の中に伝えていく。そんなプロセスが数千年続いた中国にあって、呉晗が本書に収録された文章を執筆したのは、大躍進運動に突き動かされたからというより、そうするのが中国では当たり前だったからである。そして、訳者が注釈した次の言葉が示すとおり、彼以外にも多くの人が、この当たり前の事業に加わった。

1959年以来、中国の歴史学界では、歴史人物の評価の基準を何に置くべきかという点から、曹操の評価をめぐって大論争が展開され、関係論文が千篇近くも発表されている。

本書が刊行されたのが1965年だから、わずか6年間で曹操に1000篇である。どう考えても中身が伴っていない文章が大半だと思われるが、それにしても、曹操のなにがそんなに面白いのだろうか。三国志ファンならご存知だが、曹操の中国でのイメージは日本ほどよくない。新時代を切り開いたのは確かだが、どちらかといえば「姦雄」ーー大事業を成し遂げたけど人間的によろしくないーーというのが、彼につきまとう枕詞だ。しかし、どうやら呉晗の時代では、再評価の流れが起きたようである。呉晗は次のように言う。

曹操をいかに評価するかは、多方面から検討しなければならないのである。曹操には光明の一面もあれば暗黒の一面もあり、保守的な一面もあれば進歩的な一面もあり、良い面もあれば悪い面もあった。だが総じて、彼が当時の人民、当時の歴史の発展に果たした役割、さらにその後の歴史で彼が果たした役割から考えて、曹操は肯定されるべきであり、歴史上その地位を保たるべきであることは疑いのないところである。

つまり、曹操という個人には数々の問題があれど、「当時の人民、当時の歴史の発展」には有益であったから、高く評価されるべきだというのだ。同じ理屈で、呉晗は則天武后をも立派な人物だと評する。さらに明代に北方のオイラートの侵攻に徹底抗戦した于謙、中国でも無名と言っていい地方官の談遷をも取り上げ、「記憶されるべき人物」だと持ち上げた。

ここで、当然の疑問として、「なにが発展なのか」「どうして有益だと言えるのか」と考えるだろう。そもそも、歴史人物の評価は常に揺れ動くものであり、時代によって評価が180度逆転することもありうる。呉晗もそのことをよく理解していた。再び曹操を例に見てみよう。

歴史研究者にはまだ為すべき仕事があると考える。それは、曹操にたいする当時の支配階級の側からの見方と当時の人民の側からの見方とをさらに区別すること、また魏・呉・蜀・晋の歴史家の彼に対するそれぞれ異なった見方と評価を区別すること、三国時代以降の歴史家、政治家の彼に対する見方を区別すること、等である。
(中略)
このように、種々の理由によって、曹操という人物の歴史的地位は、時代の変遷にしたがって、その評価が変えられてきたのである。したがって、歴史の研究には、やはり歴史全体の発展過程から研究をすすめるべきであり、そうでなければ、一人の歴史人物の真実の姿を捉えることはきわめて困難になり、単なる一つの仮象に過ぎなくなってしまう。これは非常に危険なことである。

なるほど、一見すると、正しい主張のように見える。とくに「歴史の研究には、やはり歴史全体の発展過程から研究をすすめるべき」というのは、マルクス主義歴史学の見方であると同時に、ランケを代表とする19世紀の歴史学の重要な方法論であり、マルクス主義では包みきれない広さを持つ考え方だ。この主張に基づき、呉晗はさらに歴史を研究する上での注意点を複数提起した、なかには、「出身階級は歴史人物を評価する唯一の条件ではない」、「人物を論じる場合、その政治的言動と役割から評価すべきであって、個人の生活からはじめるべきではない」、「今日の我々のイデオロギーを古人に押し付けてはならない」といったものもあり、すべてにおいて共産党の政治判断を優先する1960年代では、貴重且つ大胆な主張とさえ言える。この点から言えば、さすが呉晗は戦前の清華大学を出ただけのことはあり、官僚になっても歴史家の本懐を持ち続けていたと言えよう。

だが、残念なことに、上記の貴重且つ大胆な主張は、すべて一つの前提条件に従属していた。その条件とは、「歴史人物を評価するには、当時の人民の利益から出発しなくてはならない」ということである。この一言によって、本来生き生きとしていた歴史人物が、すべて無味乾燥なプロパガンダの材料に成り下がった。どういうことか。

前々回の記事で扱った荘子は、「自由な人間」になることに最上の価値をおいた。後天的に付与された足枷である貴賤、賢愚、栄辱などの価値付けが絶対的なものではないことを知り、自己の存在はこれらの一面的な価値を超えた根源的な理に支えられていることを知ることを繰り返し説いた。前回扱った荘子から1800年下った明末の李卓吾は、生まれたまま「童心」を保ち、いかなる後天的な規範をも退け、童心から自然に流れ出た感情を表現することを何よりも大事にした。そして数ヶ月読んできた魯迅も、最後の小説『起死』において、一切の歴史的筋書きと権威から押し付けられた規範を排除し、ただそこに生きている一人の人間を描いた。彼らの立場に賛同するのなら、自ずと次の結論に至るはずだ。

人間は一人ひとり異なるものであり、全く同じ人間が存在するはずがない。

となれば、「人民」という概念が歴史を評価する上で、いかに危険なのかにも気がつくだろう。人民とは「people」である。複数である。本来は一人ひとりで存在し、決して複数としてひと括りできないはずの数億もの人間が、国家という大怪獣によって、一つの「人民」に仕立て上げられたのである。その人民がマルクス主義に基づいているのか、あるいは別のなにかに基づいているのかは、この際もはや問題にならない。十人十色を捨て去り、画一的な評価基準を立てた時点で、すでに崩壊への序曲が始まっているのだ。

しかし、呉晗が上記ことに考えが及ばなかったとは考えにくい。明史を専門とする彼なら、王陽明も李卓吾も当然熟読していたはずだ。にもかかわらず、彼はそれに与せず、むしろ朱元璋のような帝王を持ち上げる道を選んだ。そこには同じく朱元璋を好む毛沢東への媚びへつらいがあったと考えることもできよう。しかし、それ以上にぼくが気になるのは、中国史、とりわけ思想史を通して眺めた場合、荘子・李卓吾・魯迅のように人間の自由を高らかに歌い上げる人々が、一度も政治の中心になれなかったということだ。中心にはいつだって儒学のお偉い先生たちがいた。彼らの学問ももちろん素晴らしい、しかし、やはり彼らの思想はどこか人間に枷をはめてしまう。呉晗もその伝統を汲む一人に過ぎなかったのである。

ここにきて、ようやく最初に掲げておいた疑問に答えるタイミングが来た。呉晗が書いた『海瑞罷官』は、何故「毒草」と批判されたのか。実は、『海瑞罷官』も本書の諸論文と同様、はじめから高度な政治的動機によって執筆されたものだった。1959年、大躍進政策の修正を求めた国防部長の彭徳懐を失脚させた毛沢東は、党内の動揺を抑えるため、「本物の海瑞と偽物の海瑞を分けなければならない」と述べ、彭徳懐の直言は海瑞の精神を受け継いだものではなく、右派の偽物の海瑞に過ぎないとほのめかした。これを受けて呉晗は彭徳懐批判に同意する論文を執筆し、さらに1960年に『海瑞罷官』を書いたのである。すでに1950年代の反右派闘争の時期から、政治の風向きを読み、自分の同僚を告発し失脚させた呉晗からすれば、上意を忖度することはお手の物だったに違いない。

ところが、政治の風向きはいつだって急に変わる。1965年11月、上述の姚文元によって書かれた批判では、『海瑞罷官』に書かれた冤罪取り消しと土地の民衆への返還が、反革命分子らの冤罪取り消しと集団化された土地の農民への再分配を主張するものとして指弾され、暗に呉晗は彭徳懐一派の郎党だと断じるものであった。毛沢東の真意は、呉晗の上司である北京市市長の彭真を追い落とし、さらに彭真を支えていた劉少奇を失脚させることにあるとされている。なにはともあれ、今度は呉晗がつるし上げに遭う番となったのだ。まもなく北京市副市長を解任された彼には、なおも容赦のない批判が浴びせられ、文化大革命が最も激化していた1968年についに逮捕され、政治犯・思想犯を収容する刑務所に収監される。そして1969年3月、妻が迫害されて死亡。同年10月、呉晗が獄中で死亡。さらに1976年9月、呉晗夫婦の養女も、精神病院で自殺した。名声、地位、生命、呉晗はすべてを失い、家族も道連れにされ、そして今なお、彼は骨のない文人の一人と目されている。

呉晗の内心はおそらく複雑だ。それをうかがい知ることはもう不可能であろう。だが、彼がかつて持ち出した「人民」というキーワードが、度々曲解され、彼自身への批判に用いられ、さらに彼とその他大勢の身に降り掛かった惨劇を正当化させるのに使われたことは、疑いようがない。だからぼくは、呉晗の内心を知ることできないぼくは、「人民」という大上段の概念に正面から抵抗するだけの勇気のないぼくは、今のところ「人民」の正反対に立つ「個人」に拠ることしかできないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?