興津・阿房列車と由比・旬!桜エビの旅①
テツの祖、内田百閒師匠の第二作「区間阿房列車」は、「読みテツ」とっては、甚だ有名な作品の一つ。御殿場線経由で西に向かうも国府津で乗り遅れ、二時間ベンチに座り、興津・由比のあたりをウロウロして帰ってくるというものだが、なぜ興津・由比なのか…、静岡県出身のテツにとってはいささか疑問なのでした。今日の旅はココから。
阿房列車、興津駅に到着
という出だしから、長々とどこへ行くかを思案の末、かつて何度も通っていた旧東海道線である御殿場線を経由して西に向かうことになりました。一人で旅が出来ない百閒師匠は、前回に引き続き、ヒマラヤ山系君こと、国鉄職員平山三郎氏を呼びでして、忘月忘日土曜日、午前11時東京発米原行きの列車で出発。
国府津駅で、走って乗ろうと思えば乗れないこともない汽車に結局乗れず、雨降りしきるベンチでヒマラヤ山系君と2時間座り続けるという…。今の御殿場線は1時間に2,3本はありますが、昭和の50年代には確かに1時間に一本という時代もあったと思います。この頃はまたさらに本数が少なかったのか。
先の「時候がよくなって、天も地も明るい」と、この「泰平」という言葉は、戦後の動乱が一区切り、それを鉄道から感じるという百閒師匠の安堵の言葉でもあるのでした。
一方で、御殿場線は電化されていないことと、もう一つ、いつの間にか単線になっているのに気づくのであります。そう、太平洋戦争時に、御殿場線は幹線の役目も無くなり、線路をはぎ取られ、単線になっていたのでした。
「いつからこんなみじめな事になったのか知らないが、東海道線の幹線であった時分、馴染みの深かった私に今昔の感を催させる。線路を取り去った後の道に、青草が筋になって萌え出している」とまた、安堵とは違う無念さも語るのでありました。国破れて山河在り。
私の小学校の時に、この御殿場線の単線化は、金属類の物資はことごとく戦争にもっていかれたんだと、先生は話していました。
百閒師匠の頭の中には山北付近の情景が、鉄道唱歌と共に焼き付いています。
御殿場を過ぎ、今度は、25‰の勾配を下るのですが、「富士岡駅」「岩波駅」の2度のスイッチバックを初めて経験します。特別急行で行き来していた時には、そんなものは無かったと。しかし、この二つは戦時中に駅に昇格しています。師匠が乗っていた急行あたりは、停車しなかったのでしょう。
そして、沼津駅に着いた百閒師匠とヒマラヤ山系は、沼津で宿を探し、千本松原でも歩いてみようと画策とするも、良い宿が見つからず…。駅の助役さんが探してくれて、「興津だったらいい宿屋がありますが…、」ということで、興津に向かうのでした。
ということで、興津到着。今日は、沼津からは激込みで、車内が何かオレンジづいているなと見てみると、「清水エスパルス」の試合だったようで、満員御礼。眠い目をこすりながら、45分、立ったまま、興津駅へ。
興津宿の名旅館「水口屋」
今日は、興津を見たら、薩埵峠を越えて、由比まで行ってみようと意気込んでいましたが、土砂崩れのために通行不可。東海道の難所は今でも難所です。
旧東海道散策の本を片手に、百閒師匠投宿の水口屋に向かいます。今は水口屋跡となっていますが、実際はどうなのか。
旧東海道の雰囲気をわずかに残す興津宿。古い家もちらほらみることができます。あちらこちらに無人販売の野菜・早生のみかんが置いてあります。
見えてきました「水口屋」。今はギャラリーとなっており、どうも地元の企業が所有しています。元々初代当主は望月氏、武田信玄の家臣であったが、400年ほど前にこの地に移り住み、塩や魚などを買い付け、甲斐へ物資を送る商人だった。江戸時代は興津宿の脇本陣として宿屋を営み、各界の著名人が泊まる日本屈指の名旅館だったと。敬愛していた漱石先生もこちらに投宿したそうで、百閒師匠も来たのは初めてでしたが、名前は知っていたと阿房列車に記されています。
観光地嫌いの内田百閒ですが、宿へのこだわりと注文はわりと多いのでした。そんな中、この旅館はたいそう気に入り、阿房列車の中では、熊本は八代の松浜軒とこの水口屋のみが実名で登場します。松浜軒はダントツで訪問回数が多いですが、この水口屋も阿房列車では2度も訪ねているのでした。
水口屋は無料ギャラリーとなっており、室内には当時を偲ぶ品々や訪問者の書・手紙などが展示。昭和天皇御用達の食器、伊藤博文・岩倉具視・山県有朋などが書いた一筆の掛け軸も迫力あります。
狩野探幽の富士もあり、掛け軸一通り見るだけでも、一見の価値ありです。
という塩梅で、百閒師匠は初めての興津でしたが、「いい景色だと思う」と口にしている。偏屈な百閒師匠の言葉では最高の褒め言葉の一つ。もう一回興津を訪れた時のの阿房列車のタイトルは「時雨の清見潟(興津阿房列車)」なので、これはおそらく片手に入るほどのお気に入りの景色ということなのでしょう。
「清見潟」って、どこ!?という感じでしたが、ようやくこの地が風光明媚であったことが伝わってきました。
東海道線沿い屈指の名刹:清見寺
水口屋のあと、もう一軒、阿房列車に出てくる「坐漁荘」という西園寺公望公の旧居を訪ねる予定でしたが、途中、山手に現れたのが、こちら清見寺。
ここには「清見ヶ関」という関所が設けられ、東北の蝦夷に備えたとか。この関所の鎮護として建立されたのが清見寺。
清見寺は、歴史的に見どころ多く、
まず一つ目、朝鮮通信使の往来の記録がこのお寺に大量に残されており、江戸時代の往来の様子を知ることが出来ます。朝鮮通信使は江戸時代から始まりますが、秀吉の朝鮮出兵からの関係回復を目的に、家康の意向で始まりました。最初の3回までの使節団は国書の返答と拉致られた人たちを連れ帰るのが目的。計12回の往来があり、来日の時には民衆にとっても一大イベントだったようで、見物客の大混雑も文献で知ることが出来るとか。
家康は1607年から駿府に暮らし、その時に一回目の朝鮮通信使を駿府に招聘し、この清見寺に宿泊させました。家康は自分の余命も数えられるような時に、本気で国交の回復に乗り出していたと思われ、懐の深さを感じます。通信使は、12回の訪問のうち、6回この清見寺を訪問しています。
驚きのもう一つ、残されている詩稿には、ココからの景色を愛でているものがかなり多く、富士の眺め、目の前に広がる大海原、沖に見える三保の松原を蓬莱山に見立て…。清見寺の山を亀に見たて、まるで亀の甲羅の上に出来たお寺だとか、裏山の柑橘、庭も素晴らしく、賛辞の詩が続き、東海道きっての名所と謳われているのでした。
次にはその家康幼少期、今川家に人質に取られていた時に、このお寺にお世話になり、当時の住職、太原雪斎和尚が面倒を見たのがこの場所。家康が使用したと言われる「手習いの間」があるのですが、3畳もないのではないか。家康公、辛酸をなめた場所ではあるが、振り返れば、思い出の場所のようで、このお寺に何度も足を運んだようです。
そして、この「手習いの間」の目の前に広がる山側のお庭は素晴らしく、山からの泉が湧き、山はやや木がうっそうとしています。作られた当初は手も入れて、もっと素敵だったと思われます。日の当たるところに草木を植え、陰になるとこは石で整えており、小さいながらも手の込んだ庭園。家康公も晩年、この庭にいくつかの石を寄贈したほど。愛着の湧く場所だったのでしょう。
うろうろと立派なお部屋をいくつも拝見していていると、ふと壁に掛かったある写真が目に留まりました。
興津の海岸は東海道線にここまで近く、清見寺からは海が一望。
先に伝えた阿房列車の二つ目のタイトルにもなっている「時雨の清見潟(興津阿房列車)」の清見潟は、車窓からも見ることが出来た「絶景スポット」なのでした。
ここは、百閒師匠の故郷、岡山から見た静かな瀬戸内海の海ではないが、どうもこの景色に惹かれて、百閒師匠は、区間阿房列車の折り返し地点を・興津・由比と初めから考えていたのではないか。ヒマラヤ山系こと平山三郎氏の追想録を見ても、初めからこの興津は構想されていたようです。用もないと見せかけて、実はココに来たかった!!のではないかと推測。
ということで、こちらは予定にはなかった「清見寺」訪問でしたが、収穫大。今一度じっくり訪ねてみたい場所となりました。
続いて、もう少し興津を堪能して、由比へ向かいます。(つづく)
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