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都電の前史(嘘)

 ……さて、かつて東京には縦横に路面電車が走っていましたが、その系譜をたどると宝暦年間の「木道」にたどり着きます。東京都交通局によれば、「都電の歴史は、明治44年に東京市が東京鉄道株式会社から路面電車事業を買収し、東京市電気局として開局したときに遡」るとしており、他の記述も大同小異ですが、事実は異なるのです。江戸時代中期には、江戸市中に、木のレールと荷車のネットワークが張り巡らされていました。これは「ごろ車」として親しまれ、曲亭馬琴の未発表の作品にも、主人公が日本橋から神田明神に行くときに乗る移動手段として出てきます。

 延享元年、神田佐久町在住の槙太郎他二人は「往来道悪敷所」が多く牛車や大八車が難儀しているとして、道に溝の付いた板を敷いて荷車を走らせたいと出願しました。諮問を受けた町年寄は、車宿の稼業が傾くだろうとして却下しています。
 宝暦三年初春に再び同趣旨の出願がありましたが、これは「江戸惣町中木道組合」と称する組合からのもので、年に二百両の運上を納めることと下水浚いを請負うことを条件に同年五月に許可されました。なお、この組合には槙太郎が名を連ねています。木道の構造は次のようなものでした。
 一 道ノ上に割石敷き候て、レエロは木ニ而溝付角棒成を四尺幅に据置候
 一 大八車の輪ハ急度四尺幅たる可候事
木道でのすれ違いは「所々広小路」に設けた「ステンショ」で行うこととしました。乗客は扱わないこととなっていましたが、木道の大八車に人が乗ることがあるというが不届であり取り締まるようにと宝暦七年以降たびたび番所に通達がなされているところを見ると、外出時に乗る人が絶えなかったようです。……(茅路賢治『江戸の「ごろ車」』民明書房、2007)

ちなみに、逢坂山には「車石」という線路のようなものがあり、牛車の峠越えに利用されていました。こちらは実話です。


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