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生きたくても生きられない時代があった~ひめゆりの塔を訪問して~

読んでくださりありがとうございます。

出張で沖縄を訪問した際に、時間ができたので前から訪問しかった「ひめゆりの塔」に行ってきました。

今日はそこで感じたことを書きたいと思います。

ひめゆり学徒隊とは?
 第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年の4月、沖縄に米軍が上陸し、熾烈な地上戦が展開されました。そんな中、当時沖縄にあった21の男女中等学校から生徒たちが動員され、戦場に送られたのです。女子学徒は15歳から19歳で、主に陸軍病院等で看護活動にあたりました。男子学徒は14歳から19歳で、上級生は「鉄血勤皇隊」(物資輸送・橋の補修等)に、下級生は「逓信隊」(電線の修復・電報の配達等)に編成されました。

 当時、真和志村安里(現在の那覇市安里)にあった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校からは、生徒222名、教師18名が南風原の沖縄陸軍病院に動員されました。そしてそのうち136名が戦場で命を落としたのです。両校から動員された生徒・教師たちを戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ぶようになりました。

ひめゆり平和記念資料館ホームページより引用

最後は「天皇陛下万歳」ではなく「お母さん」と言って死ぬ

ひめゆり学徒経験者の証言をたくさん聞きました。どれも惨劇ばかりでしたが、その中でタイトルの言葉が1番印象に残りました。

インタビューに応えた方は、「兵隊はみんな死ぬ時に『天皇陛下万歳』と言う」と教育されていて、当然そうだろうと信じていたそうです。

でも、実際は誰もそんなことは言わない。
みんな「お母さん」と言って亡くなるそうです。

また別の証言をでは、いよいよ敵に取り囲まれて自決のために手榴弾のピンを抜こうとした時に、級友が「死ぬ前にお母さんに会いたい!」と叫んで自決できなかったと証言されていました。

それほど「おかあさん」の存在は大きいのですね。不条理に殺される事がなくなったから現代で意識することは無くなりましたが、もし本当に今亡くなるとしたら、自分は誰に会いたいと言うのかな?…そんなことを考えました。

鎮魂の部屋の空気

第4展示室では沖縄戦で亡くなった227名の写真が壁に並べられています。その227名に囲まれた中で、戦争の証言を自分で読めるようになっています。

その証言は不条理のものばかりです。傷口のウジがうるさくて眠れなかったり、目の前で級友が被弾したり…。

そして、その部屋の奥にはガマ(隠れていた鍾乳洞)の模型がありました。

入り口から差し込むわずかな光を見て、10代の子供は何を思っていたのだろうか…そんなことを考えずにはいられない場所です。

こんな経験は自分もしたくないし、自分の子供にも絶対して欲しくないと強く思いました。

映像「生き残ったひめゆり学徒達」

そんな辛い体験をすることが多いひめゆりの塔ですが、最後の「生き残ったひめゆり学徒達」という映像に心が救われました。

戦争で壮絶な経験をしても、未来を見て暮らしていくことが出来る。簡単ではないだろうけど、人の強さ、そしてどんな時でも笑顔でいる子供の大切さを感じました。

振り返っての感想

今回ひめゆりの塔を訪問して感じたのは2つです。1つは戦争の残虐さ。どんな理由があっても、人が殺しあうことに正義はないと思います。

もうひとつは、70年前は生きたくても不条理な理由で生きられなかった人が日本には沢山いた事実。だからこそ、今日生きられることに感謝をして生きたいと思いました。

今日の質問
あなたはひめゆりの塔で何を感じましたか?




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