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冬薔薇 ふゆそうび

「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ」

J・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳)

 Das Zeichen des Unreifen ist es, einen edlen Tod um der Sache willen zu suchen. Andererseits ist es das Zeichen eines reifen Menschen, ein bescheidenes Leben um der Sache willen zu suchen."

主人公は伊藤健太郎扮する渡口淳。25歳の彼は何をするにも中途半端で、さすがにその歳でその甘えた精神はないだろう、と思ってしまうような振る舞いをたくさん見せます。彼は基本的に受け身で流されるように生きていて、困ることがあればそれっぽいことを口にしてやり過ごそうとしたり、子供のように愛情を欲する姿を見せたりと、明確に未熟さを抱えた人物として描かれます。

伊藤健太郎の名演に心の成熟を考える 『冬薔薇』に込められた阪本順治監督のメッセージ

お父さんは、子供に語りかけたり、一喝入れるということをしない大人。時代にそぐわなくなった仕事を堅実に続けている。だから、彼の大義というものがなんなのかが、他人には分からない。そんなお父さんの背中を見て、感じたり、お父さんの人生を考える成熟さがない息子。ふらふら、大きな結果を求めて、彷徨っている。
こんな2人の間に必要なのは、お父さんの大義を息子に伝える人ではないか。職場の同僚が、少しだけそれを息子に伝えたが、無理強いしてまで、息子を引っ張ろうとしない。お母さんは、曖昧な夫に不満はあれど、大きな衝突を避け、質実剛健な生活を黙々と続けている。生活に張りがなく、夫婦関係はうつ状態のように見えた。息子があんなふうだからそうなってしまうのだろうが、息子が、キチンとした人になれば、夫婦にはりがでるとすれば、それもどうだろう。

愛情の表現、それを口に出して、相手に伝える。それが出来ないお父さんの愛情を、息子に翻訳してあげる人。それが、息子の周りにはいなかったのかな。お節介でもなんでも、父や母の愛情を息子につたえたい!というジレンマに、わたしは襲われた。