真理の賞味期限

真理というのは普遍的なものでなくてはならないけれど、実は同時にきわめて個人的なものでなければ無意味だというところがある。
  
 これは、僕があるカトリック系の大学で講義をやった後の学生との懇親会で、学生が話していたことと関係する。その男の子は横にいた女の子と、「太陽はいったい誰のものか」ということについて議論していたのだ。太陽とは、神様のことを指している。神様は、私だけのものではないけれど、でも圧倒的に私だけのものであるということがなければ、信仰は成り立たない。
  
 教壇では普遍的なこと、一般的なことを語らねばならない。だが、そのとき、なるべく個人的なことも合わせて語る。普遍的、一般的なことは、同時に個人的でもなければ、説得力をもたないからだ。

 しかし、その個人的なことが、若者たちに伝わる限界というものがあるように思える。
  
 僕は、五〇歳を過ぎた。受講生は二〇歳前後であり、僕のその時代は30年も前だ。その頃の体験と記憶は、今の僕のある部分を間違いなく形作っているが、しかし、やはりかなり古ぼけてはいる。でもそれはまだ、かろうじて伝わり、生彩と説得力を与えてくれる。
  
 しかし、その賞味期限は迫っているように思う。
 この年になって、経験に対するそれなりに深く普遍的な洞察は身についてきた。でも、その洞察の説得力を高めてくれる私個人の経験が生き生きしていられるのは、あと少しではないか。
 そういう意味で言えば、私の教員としてのキャリアは、じつは、いまが最高潮にあるのではないか、という気がする。

  彼はタクシーの中で「これ以上幸せになれっこないんだ」と泣き始める。

と、まぁそんな感じだ。

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