映画『福田村事件』を観てくる

映画『福田村事件』を観てくる。
ストーリーは説明するまでもない。関東大震災後、千葉県福田村で、誤った虐殺が生じたことを扱ったものである。架空の登場人物も設定されている。
ある意味、とても単純な映画だった。いや、単純に見えるようにきちっと作り込まれているというべきだろう。
それゆえ、観る側は、全編にわたって、「あなたならどうする」と問われているようにしか思えない。正解は、簡単である。
寺田寅彦が次のように述べている。

「・・・震災のあと、朝鮮人(ママ)ママ朝鮮人が井戸に毒を入れたという噂が流れて、多くの人が殺されるといういたましい事件があった。この噂について考えてみよう。もし、この噂が本当だとしてみる。一口に、「井戸に毒を入れる」というが、東京の井戸の例えば十分の一に毒を入れるとして、一体どのくらいの量の毒物が必要になるのか。素人考えでも、それが相当な量にのぼることがわかるだろう。その大量の毒物を、どこかに保管しておいて、地震直後の混乱の中でそれを分配し、人の見ていない隙を狙って井戸に投入し、さらにかき混ぜる・・・。こうして考えてみると、「暴徒が井戸に毒を入れた」という噂を、相当な確信をもって打ち消す事が出来るはずである。「頭がいい」というのは何も、地球から海王星までの距離を知っているとかビタミンの種類を全部言えるとかいうことではない。与えられた情報から、正しい判断を導き出せること。それが人間の知恵というものではないか・・・」。

 こう考えるべきである。それ以上でも以下でもない。
 合理的に考え、分別を持って振る舞うだけである。

 しかし、その場にいたらそう簡単な話ではない。
 むしろ、あなたは殺す側か、それとも殺される側か?
 殺す側だったとして、みずから手を下す人か?
 それとも回りにいて、はやし立てるだけか?
 あるいは、止めろと叫ぶだけか?
 映画のなかでは、阻止しようとして、傷つけられるひとはいなかった。
 あるいは、
 殺される側か?
 自分は子どもか? それとも大人か?

 映画では、それぞれの立ち位置が分かるように丁寧に描かれていた。

 偶然に、ショーペンハウアーの『哲学入門』を読んでいて、そのはじめに、世の多くの人は、「一般にものごとに関していつももっぱら個々別々のものばかり見て、それの普遍的なものを見ていないといえる」とあった。哲学者でない人間は、「意志」に引きずられ目の前にある周囲のものにしか思いがゆかない。しかし、哲学者は、そのつど現れる個々の事物の、そのむこうにある普遍的なものを把握する。

 「個々別々のもの」とは、この映画で言えば、この状況である。確証のない流言飛語や、村の人間関係のなかでのヘゲモニー争い、それぞれの過去の記憶などなどである。この映画に出てくる登場人物は、みな「世の多くの人」だった。
 二度だけ例外があった。讃岐の薬の行商人の頭領が叫ぶ「朝鮮人なら殺していいというのか?!」と、もうひとつ。
 河原で惨殺される行商人のなかの青年の「ぼくはいったいなんのために生まれてきたんだ」という言葉である。
 私は、この青年の言葉を思い出すと、悲しくなってしまう。彼は、忙しい合間に本を読み、人間の普遍的なものを学びはじめていた。しかしそんな彼が、まったくの誤解に取り憑かれた村人たちによって、まったく死ぬ必要のないこのときに命を絶たれる。
 私は、この青年を殺す側に立ちたくない。


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