手術報告

もう随分まえの話である。

しかし、ようやく書き置く気になれたので、ここに記しておく。

がん治療は早期発見が大事。私の場合は小細胞ガンでした。


2012年
11月28日 近所の石沢内科にてレントゲン検査。影がある。そのまま西新宿のメディカルスキャニングで検査。
 ・医師の話を、いまだ真に受けていない。
12月3日  石沢内科にて、癌の疑いありとされる。東京医大予約。
 ・最もはじめに思ったのは、「めんどくさい!」ということであった。
  
12月6日  東京医大呼吸器外科池田教授による診断。肺癌の疑いあり。ただし、大きさは1.6センチ程度のため、よい。
     検査できないので、いきなり手術。1月第2週あたりを予定。
 ・しばしば悪夢をみる。
 ・禁煙のため苦しむ。
12月8日  担当医である垣花先生より、電話。年内中に手術ができる目途がたつ。21日に手術予定。
12月12日 pet検査。
12月13日 垣花医師と面談。各種検査。
12月17日 麻酔科医師と面談
12月19日 入院
  担当看護師から、入院の全体の流れの説明を受ける。
   説明のさい、「~な感じ」という言い回しが二三度用いられる。気になる。

 ・晩ご飯は、奥さんとともに、病院の近隣のトンカツ屋でヒレカツ定食を食べる。
 『ワン・ピース』を一巻から読み始める。

「入院していると、気持ちが楽。まわりはみな同じような病気のひとだ。しかも、私のように軽いのは少数派である。みな死に怯えているわけではなく、生きて、治療している。」

12月20日
「明日は手術。もう食べ物はダメ。22:00になったら、睡眠誘発剤をもらて飲むことにしている。ガンであるかどうかは、明日、手術でわかる」。

12月21日 手術
「手術当日。朝から緊張。追い込み、こちらから攻撃を仕掛けるような気分にならねばならぬと思うが、なかなかそうはゆかない。しかし、看護師さんとあれこれ話しながら説明を受け準備をすすめる。
 奥さんが、なかなか来ない。きっとくるだろうが、家族が来ず手術に向かうひとは、ほんとうに心細いだろう。奥さん、到着。がんばれと言われる。うれしい。」

「手術室に入る。エコノミー症候群を起こさないための靴下。キャップ。パンツなし。紙おむつをはいてもよいのだが、やめた。きっとウンチを漏らすだろうが。手術するにあたって、スタッフが挨拶に来る。「ドラマみたいですねぇ」などと言うが、心の余裕はほぼない。

「手術台に横になる。まず背中に痛み止めの麻酔。少し痛いが、緊張のあまり気にならない。
 麻酔医たちは、陽気である。くだらないオヤジギャグなど言っている。しかし、これに心和む。
 顔のすぐ脇に、看護師の一人がいる。つまり、20センチくらい前に女の顔がある。森三中の「黒沢」みたいな顔。つまり、ブサイクではないが、美人というわけでもない。このひとがいろいろ聞いてくる。「痛くないですか」とか、「気分わるくないですか」とか。要するに、私の状態を伝える係なのである。しかし。この近さは、なんか内緒話をしたくなる。ふだんしないようなエッチな話をしたくなる。が、この気持ちは、逆に言えば、この看護師さんに、すべてを委ねたくなる感じでもある。ありがたい。
 などと思うまに、仰向けになる。「はーい」とかなんとか言って、マスクをあてられる。
 その後記憶なし。

 突然、まわりが慌ただしくなる。暗闇のなかでさわぎが起こっている感じ。
 奥さんが、手術に8時間かかったと、やはりガンだったと言うのが聞こえた。
 手術前に、さんざん説明されていたのは、筋肉弛緩剤を注射するので、肺の機能が働かないから挿管し、人工呼吸器を使うとのことであった。麻酔から回復すると、まずその挿管に驚くから注意せよ、とのことだった。覚醒直後、挿管を外される。義母と息子がいる。
 その後、また眠った。しかし、それにしても相当に不快な夜だった。
 まず、尿道に突っ込まれている管。この違和感。自分の担当ではない男性看護師を呼んで、どうなの?と聞く。彼は、なんか答えていたはずだが、忘れた。
 次に、寒いこと。電気毛布を掛けてくれるのだが、寒い。看護師に、肩まで掛けてくれと頼む。もっとしっかり掛けて!
 もっとも、基本的には、なにがなんだか分からない。ひたすら不快なだけ。
 身体は動かない?あるいは、動かしてはいけないと思っているから、動かさない。寝返りは首を左にねじるだけ。
 8時間のあいだ、右手を不自然な格好のまま上げていたことになるので、そのための筋肉痛がものすごい。右手には力が入らない。
 鎮静剤を飲んだような気がする。術前から一貫して話されていたのは、「痛いときは痛いと言え」ということだった。痛み止めをたくさん飲んではいけないという考えよりも、痛み止めを飲み、痛みを抑えることが第一、ということだった。手術後の晩は、座薬を入れたような気がする。
 13:30に手術がはじまり、8時間かかったから21時すぎである。そのあと、ずっとあまり動けなかった。これは、ほんとにつらかった。動かせるのは右手だけ。左手には点滴。チンチンにはチューブ。酸素マスク。右脇腹には排液ホース。そして右の背中に痛み止めのカテーテルである。両足はキツキツの靴下に、もみほぐしのためのマッサージ機(これが、意外と退屈さを救ってくれた)。
 喉が渇く。なんか飲みたい。看護師さんが、一度だけ口の中を脱脂綿で湿してくれた。うれしかった。

12月22日(手術翌日)
 長い不快な夜がようやく過ぎた。
 まず、午前中だったと思う。今日の担当の看護師さんがやってきて、いろいろやってくれる。Tさんである。酸素マスクを外し、鼻からのものにする。ちんちんの管を抜く。これがさっぱりするかと思ったら、逆に違和感。そこではじめて、すでにこの管に慣れていたことに気づく。すぐにオシッコがしたいと思ったが、それは、そう感じただけだった。
 次に、服を着替える。手術をした後、着せられた服なので、寝間着に着替える。ただし、そのときはすでに「T字帯」というものをしている。これは要するふんどしである。フルチンだった私に、誰かが履かせてくれたのだ。
 チンチンから管を抜いたり、ふんどしからパンツに着替えたりという作業があるのだが、点滴、腹のホース、切った跡、そして筋肉痛。こうした状況ではなにもできない。結果的に、若き看護師さんにすべてゆだねた。おっさんが、女の子に着替えさせてもらうのだ。パンツをあげてもらうのだ。大人になってから、女性にパンツをはかせてもらったことなど一度もない。恥ずかしいとも感じたが、むしろありがたく思った。看護の原点がここにあると思った。
 ようやく居住まいを正し、人間らしくなったが、そこに執刀医チームのひとりの先生がくる。手術の説明をするが、いずれにせよ、いまはぼーっとしているからもっと後でちゃんと説明するということだった。もっともである。頭はほとんど回っていないのである。
 まだまだ身体は、正常の状態にははるかに遠いが、「歩け」ということなので、酸素と排液バックを引きずりながら歩く。まずは、レントゲンを撮りに行く。このときは、看護師さんがついてきてくれた。最初、手術全体の流れを説明されたとき、看護師が付き添うなんてバカバカしいと思っていたが、実際、この状況になってみると、ついてきてくれるのが、ホントにうれしい。
 
 奥さんがくる。
 昨日の結果を聞く。
 要は、肺癌なのである。しかし家にいた頃とは受け止め方がちがう。
 たしかに、腫瘍はとった。しかし再発の可能性はある。その点は恐ろしい。ただ、同じ病室の右となり以外のすべての人は、再発の患者である。右前の50代と思われるひとは、つらい抗ガン剤の治療中である。ここは、肺癌で有名な東京医大の呼吸器外科なのである。
 その後、奥さんとゆっくり話をする。お菓子など食べる。甘いアメやしょっぱい煎餅などを食べる。
 そしてさらに、息子と奥さんの友人が見舞いにくる。くたびれ果てた私を見て、息子は、びっくりしているようである。それも仕方なかろう。しかし、手術一日後である。さすがに体力がもたない。おまけに息子はぐずりだす。思わず、どこからそんな大きな声が出たかと思うほど、大きな声で、「家に帰れ」と叱る。後で、これでたいそう疲れたことが分かったが、いつものようでもあり、よい。
 晩ご飯は、腹を立てており、また疲れているため、うまく食べられない。おかゆを膝の上にこぼしてしまう。前の席の人に、「大丈夫ですか?」とこえをかけられる。なんとも情けない。
 術後一日目の晩は、息が苦しい。呼吸をすると右胸の上部が痛い。看護師によるとそれは胸が広がっているからだそうである。

12月23日(手術翌々日)
 手術時の姿勢のための肩こりがひどい。
 腹から挿している排液の管が気になる。
 この「排液」とは、手術後に出る、血液を含む体液で、その量がどの程度、どのような種類のものかをチェックするらしい。看護師の話では、私のはもう少なくなっており、明日あたりには外せるだろうとのこと。
 実家より、弟、義母、義弟がくる。彼らは父親のことを(父親は、大腸ガン、後に肺に転移)経験している。
 この日で、ずいぶん回復した。
 夜、はっきりと分かったのは、だんだんまともになってきたということだ。今日までは、手術後、とにかく生命維持のためにというか、具体的には、痛みや身体を動かすことといったことにかかりきりだったのが、それらがとにかくクリアできるようになった。そうしたらあれこれ心配したり、不安になったりできるようになってきた。
 夜には、いやな夢をみた。誘眠剤をもらって寝る。

12月24日(手術3日後)
 前の晩、気持ちよく眠れなかったので、朝気分がわるい。

12月28日 退院


■看護師のことなど
 私を担当した看護師はすべて女性で、20代あるいは30代はじめの若い女の子たちばかりである。
 いちばん印象深いのは二人。私を手術室に送り出してくれた人である。この人は、なんと手術翌日の担当でもあった。もうひとりは、手術翌々日のひとである。
 彼女たちが立派だなと思ったのは、彼女たちが、私の視線の先を見ているからである。無論、看護師たちはみな「遠慮なく言ってください」という。しかしだからといって、なんでもかんでも言えるわけではない。なぜなら、自分でやらねばならないと、自分でも思っているからである。
 そこで、彼女たちは、あらかじめこう言う。
 「お手伝いしましょうか」
 すると、こっちは自分でやらねばならないと思っているから、
 「いや、自分でやります」
 と言う。すると彼女たちは、
 「そうですか、がんばりましょうね」
 とくる。そこで、がんばることになる。そして
 「よくがんばりましたね♡」
 と言われる。要するに、自分でやっているだけなのであるが、それだけではないのである。


 看護師というのは、ある場面で、人間が人間らしくあるギリギリの線を本人に代わって守ってくれるところがある。
 こんなことを思い出す。あるとき飲み屋でバーテンと、「見知らぬ他人の残した飯を喰うか、喰わないかってところに、線が引かれているよね」というような話をしていた。
 自分でパンツがはけるかはけないか、オシッコができるかどうか(←ウンチした後の尻を拭くより大事)、ここにも線がある。そして看護師は、このラインに関わってくる。
 
 だから、看護師は若い人のほうがいい。なぜか、若さは「生」の象徴だから。言い換えれば、存在することが生を肯定しちゃっているようなあり方の人の方がよい(存在することは、ただちに生を肯定するとは限らない)。
 
 生は、さらに性と同根でもある。
 
 こういうところから人間観について考えることもできる。
 看護師が守る患者の人間性は、どこにラインが引かれているのか。


■その他雑感
○病院に入院するとはどういうことか
 身長体重、体温、心拍数、血圧、血液の状態、排泄物、栄養、運動etc.すべてを管理される。
 ただし、上記の管理される項目のそれぞれは、生命を維持するために必要なものである。言い換えれば、生命それ自体が、いわば剥き出しになっている、そういう状態になる。
 入院は退屈である。それは、管理されているということの裏返しに他ならない。

○看護が関わる部分
 そして、看護とは、上記の生命維持の部分に直接関わってくるものである。

○看護師に必要なモノ
  ・知識 なんらかの処置をするとすれば、それは何故におこなうのかとか。
    薬について、痛みについて。
  ・患者の立場に立つこと
  ・生きる希望を与えること


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