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伝えたいことは、他愛もないはずなのに。

昨夜は「る」の読書会おつかれさまでした。

前回の更新あたりで僕を執拗に追い回していたありとあらゆる言葉の波を、ひとしきり往なしました。めでたく釈放です。

もりきょんはどう? 燃え尽きた?

やさしい言葉を書く人になりたい。という心持ちがもう、やさしいですね。もりきょんらしい。(というスタンスで、僕もついでにやさしい人だと思ってもらう算段です)

インタビュー記事、エッセイ、ショートショート、小説……昨日の読書会でも少し触れたけれども、僕たちはそのどれもに片足を突っ込んでるよね。もうタコよ、タコ。

気心が知れているもりきょんや、Decchiのもりきちといった面々は例外なのだけど、僕は昨日の読書会まで「他者の作品に対する直接的な感想」は避けてきてた。

何とも曖昧で、ハッキリとした表現を使えなかった理由は、自身の解釈に見えない正しさを押し付けていたからだと思うんだ。なんとなく自覚はしていて、それでもこのモヤモヤを誰にも打ち明けられなかったのだけど、少しちがう形で表現してくださったのが、僕たちが大好きな〈小鳥書房〉落合さんの日記の一節。

昼前、かすかな振動音で目が覚める。柳沼さんからメッセージが届いている。地震のあと店を見に行って無事を確認したことの報告と、無事を尋ねる内容。昨夜わたしから送ろうとして送れず消した文面そのままで、送る側と送れない側という人間性の差にちょっと落ち込む。気遣いしすぎていつも間違える。
2022.3.14〜3.20 週日記 より

勇気なのか、それとはまた違うかもしれない。けれども、気遣いしすぎていつも間違えるという言葉が、僕の抱えるモヤモヤそのものでした。

著者はどんな気持ちで書いたのだろう。
もし自身の受け取り方が間違っていたら。
読み落としがあったなら。
言葉の意味を履き違えていたら。

こうして石橋を叩き続けるさまを他人に見せてしまうと、途端におしりを叩かれて川に突き落とされてしまう……なんてことになりかねない。僕はみるみるうちにカナヅチになっていきました。流れている川は、穏やかだというのに。

読書会の冒頭に残っている「事実を伝えるものじゃなくて、創作だから受け取り方は自由だよね」という言葉は、そんなモヤモヤに今日だけは蓋をしようという決意の表れでもありました。読書会やらない? と言ってくれたことにすごく感謝してる。ありがとう。

たとえもりきょんが屈強な男であっても、赤信号を一緒に渡る気にはなれない。が、拙い読解にも、浅はかな感想にも、そのやさしさが付き添ってくれるのであれば…! ということをすごく感じることができたのは大きかった。パワー。

というわけで、一歩踏み出して感想や見解を発信していけたらいいなあと思ったのがひとつ。

でっちあげやら、ショートショートやら、往復書簡やら、生業としての執筆以外にも勤しんでいる僕たちですが、いつか二人で、カルチャーマガジン的なこともやってみたいなあ……と思ったのが、もうひとつ。(読書会が本当に楽しかった!)

できる、できないは考えなくていいよね。妄想だし。

さて、今回の記事はこれで終わりになるけれど、あと10日で「てんびん座」が一周年を迎えることにはお気づきですか?

てんびん座月間に何かやろう! は叶わなかった(というより回らなかった)けど、ここいらで何か一発、または変化を取り入れてみるのはどうでしょう。

仕事も、市民活動も、もっと言えば趣味や音楽も。いわゆる雑食な僕たちの「雑食ラジオ」とか、昨日やったような「浅はかな読書会」とか。

できる、できないで考えたいよね。一周年だし。

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