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夜空いっぱいに広がる言葉たち。

あれよあれよと、10月も残すところあと5日になりました。気づけばてんびん座に該当する10月23日も過ぎ去ってしまったけれども、僕たちは変わらない毎日を過ごしています。元気です(?)

これはもう、何もしないという企画なんじゃないかと思えてくるほど。今月の楽しみと言えば、それはもうもりきょんに対する木こりいじりに他なりません。どうか、ユンボで僕を追いかけないで。

冗談はさて置き、僕は27歳になりました。もりきょんが綴った大人の話を、僕もつらつらと吐き出させてくださいな。

近頃は「それが礼儀ってもんでしょう」とか「筋を通さない人は信頼されない」とか、そういったセリフをよく耳にします。僕の周りで起きているムーブメントだといっても、過言ではありません。やっぱり過言です。

そんな話を聴く度に、僕は大丈夫なのだろうかという疑念を抱きます。僕は周りの大人に比べて、そんなことを考えながら生きている実感がないからです。

そういう人たちは決まって、言葉や振る舞いに対するしこりを感じる能力に長けている。僕が何となく聴いていた話も、「それはちがうんじゃないか」と即座に物申せる力を持っている気がしてなりません。

こうして言語化することでようやくしこりに気づけるのですが、そうしないと気づけない自分は「こども」なんじゃないかとさえ思えます。それなのに、その人たちは礼儀や筋といった話を、僕にぽろりとこぼしてくれるのです。

あぁ、僕はポンコツなのにな。

そんな僕にも、大人の階段を上っている!と思える瞬間は時たま訪れます。直近で言えばそう、もりきょんもよーく知っている営業時間の確認漏れ事件

どんな失敗をしたのかは割愛させてもらうけれども、きっと、文筆の機会をいただけていることに慢心していたんだと思います。しっかりと事実をお伝えしたうえで謝らなければ。そして、同じ過ちをしてなるものかと強く心に誓いました。階段を上っているというよりは、いまの僕を越えていくための階段が目の前に現れたのだと思いたい。

そして、父親としての僕。

僕が年を重ねていく中で、息子もあっという間に2歳になった。何を言っているのか分からないこともあるけれど、会話が成り立つ幸せをかみしめています。言ってることが分かったときの幸福感たるや。

一昨日、家族で伊王島温泉に行ったときのこと。息子は「かあかと入る」といって僕の手を離したので、ゆっくり温泉に浸からせてもらうことに。この半年ですっかりショートショート発想法が頭に染みついた僕は、なんで夜空は暗いんだろうとぼんやり考える。

「おはよう」ではじまる朝。そこからたくさん話す息子の言葉は、風船のようにふわふわと空へ飛んでいく。可視化されたそれは、空を少しずつ黒に染めて、ついにお日さまは海に沈んでいく。これが夜になるということらしい。

この子が発した言葉は空いっぱいに広がって、疲れ果てて眠りに落ちた夢の中で記憶として蓄積されていく。そしてまた朝を迎えて、青空の下で「おはよう」と笑う。

せっかく空が言葉で埋まるのなら、やさしい言葉を教えたい。あかるい言葉を伝えたい。そんな言葉で埋まる空は、今日も真っ黒に染まりゆく。

僕はそれを、子育てと呼ぶのだ。

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