鴻上尚史氏の「成人の日によせて」について勝手に推敲してみた
みなさんこんにちは、長南です。
2023年の成人の日を前に、鴻上尚史氏が時事通信より成人の日によせる原稿の依頼を受けていたものの、20ヵ所以上の修正を要求され納得できないので決裂したとの書き込みがTwitterに投稿されました。
Twitterでは「直す必要のない名文なのに何故?」「『体言止めが美しい』とは」という反応がありましたが、私は文章としてはそれほど美しくもなく、仮に私が編集者だったら20ヵ所どころかリライト(書き直し)を要求していたかもしれないと思いました。ただ、そう主張しているだけでは単に貶している(ディスっている)だけにすぎないので、この記事ではどこに問題があるのかを言語化し推敲してみたいと思います。
段落別の推敲
1段落目
最初の書き出しですが、いきなり違和感を感じます。文章全体は「です」「ます」の敬体で統一しているのに最初の文だけ常体で統一されていません。統一するなら「おめでとうございます。」になるけれども、読者に呼びかけるかたちだと「おめでとう!」とするくらいかなと思います。さらに「でも、」と続きますが、先行する主張がないのに「でも」というのは唐突すぎるように思います。問題提起をする上でなにか差し込んでおきたいところです。
2段落目
親、先生… と列挙しているところが私の感覚だとヤボに見えます。そんなことならいくらでも他人を列挙できるじゃないかと。先に主張したいことを書いて説明を後ろに回したいところです。3段落目の構成とも対比がとれ、リズム感を増すことも狙いたいところです。また、字面で「ただしたがう」というくだりが誤読を誘いそうなところに見えるので「従う」と漢字を使うか、読点を入れたいところです。後に「黙ってブラック校則に従え」という部分があるのと、その後に読点を入れたいので漢字に直しました。
3段落目
「訓練」という言葉えらびが気になります。私のイメージでは「訓練」というのはその先になにか望ましい状態にいきつくイメージがあるのですが、後にそれを否定することを書いているので、オールドメディアっぽいところに書くのは冒険だけど「教育」と書いて、もし突っ込まれたらもうちょっと考えたいところです。もちろん生徒・児童の主体性を活かした教育を行っているところはあるとはいえ、少数派だよねという含みを入れたいところですが、そこは次の段落で補完できそうです。
4段落目
中学・高校というワードが繰り返されるところですが、うまく省略してスッキリ整理したいところです。「学校」あるいは「教育機関」あたりでしょうか。直後に「中学生らしい」「高校生らしい」と書くので曖昧なくくりでも成立すると思います。「言われています」というのもヌルいので「校則で縛られている」ニュアンスを出すために「言われます」に変更したいところです。
「様々」はひらがなで「さまざま」と開きたいところでしょうか。カギカッコの前に読点入るところをどれだけ忌避するかは微妙ですが、とりはらってみました。
「それぞれの人の頭には」というのは「脳内には」ということなのですが、リボンのことを後で論じるので、「頭」と書くのは誤読を誘う上に流れがよくないので整理したいところです。
5段落目
いわいるブラック校則の具体的な話ですが、「リボンをつけることの是非」ではなく「つけるリボンの幅に校則規定があるのがナンセンス」なので、「3センチ幅のリボン」に修正しました。個人的に「リボンの幅が3センチは」という書き方は体言止めというわけではないのでしょうけれども、リズム悪くヤボにみえます。
また、校則というのは生徒を「説得」するものではないので「説明」に書き換えました。論理的でなくても説得できればよいわけでもなく、根拠を論理的に説明できないとダメだと言いたいわけですので。
6段落目
前の段落でブラック校則の例をあげて、論理的に説明できないと主張したのですから「絶句すると思います」は表現として弱いと思います。筆者の主張を変える形になりますが「絶句します」と言い切って良いところです。
また「出身の都道府県人らしい」という表現がヤボなので「出身地」と置き換え、筆者が「絶句」、読者が「混乱」と表現を変える理由もないので「私と同じように絶句」としました。
7段落目
「定義不能」という言葉が気になります。この瞬間に一気に数学っぽい雰囲気になったし、その後に「命題」とか「証明」とかでてくるわけでもないし、若干表現をやわらげたいところです。わざわざ「不能」と書く必要もなく「定義できない」とか「決められない」程度で十分伝わるのではないでしょうか。
8段落目
「服装の乱れは〜」と言われている範囲が学校の中なのか外なのかわかりづらい状況になっています。マナー講師的な人たちが言われているところではありますが、この文内で「大人」と書いた時にそれが「新成人」を意味するのか「イケナイ大人(?)」を意味するのかわからないので、範囲を学校(とりわけ高校) と想定し、1文目を圧縮してみました。「大人」というワードはリボンの幅のところでも出てきたのですが、ブラック校則の具体例のところだったので許容していました。また「標語」というより「スローガン」とか「叫ぶ」とかいうほうが伝わりやすいのではないかなとも思います。
9段落目
この段落でも文体が乱れているなと思ったのですが「黙ってブラック校則に従え、疑問を持つな」のところはかぎかっこに入るべきところでこれが落ちていたようです。また「自分の頭で考える〜」というのは「成人するときに」言われるのではなく「成人したらずっと求められる」ものなので妥当な表現ではありません。かぎかっこの対比はすべて常体で書かれられるところ統一できていないところも直しました。
「一人で泳ぐ」のところは喩えであるのは明白で、しかも喩えを変えて繰り返しているところなので、繰り返したところはより強い表現を使うのがよいと思います。「言われているようなものです」では焦点がズレてしまいます。
10段落目
ここに来て残りのテキストを全部1つの段落に詰め込んできたわけですが、あきらかにこれまでの流れにくらべて文章の精度が落ちています。適切な単位に段落を切り、読者へのメッセージを折り込みたいところです。
「訓練を始めるしかありません」では新成人が萎縮するだけなので、「訓練を始めましょう」としました。また学校教育で扱う本や文章を「退屈な本ほど価値がある」としてしまうのは主語が大きすぎる上に、それこそ教科書に乗っているような名文の価値を否定する点で危険な考え方に見えるので、「価値がある退屈な本」に変えました。依頼元がオールドメディアなのでワクドキ(笑)ではなく「ドキドキワクワク」が適切なんだろうなということで修正、「本当面白く」は「に」が落ちているので補いました。
「自分の頭で考える」というフレーズがかぎかっこ内の句だったりそうでなかったりするので、すべてかぎかっこでくくり、最後も「さあ、成人して」と新成人に対して無駄な呼びかけを直しました(成人は自発的にするようなものではないですよね)。
必殺(?)体言止め
ひと通り検討してきたわけですが、どうやら編集者はどこかで体言止めをキメたいということのようです。効果があるのは主題部分のラス前でしょうか。
体言止めにするのならこんな感じでしょうか。
推敲後の文章
ということでこんな感じのものができました。
推敲を通じて
今回趣味が悪いのを承知で人様の文章を勝手に推敲するということをやったのですが、鴻上尚史氏のこの原稿に対して20ヵ所以上の修正が入るというのは実際に文章を見て妥当なんじゃないかと感じました。言い回しや用語の使い方に改善点が多く見出されたし、最後の段落は「本を読もう」という主張を1段落に詰め込んだ印象を受けました。締め切り前にハイテンションで詰め込んだような印象もあります。正直もっと精度のよい文章を書くことは十分できるんじゃないかと感じつつも、編集者が見てくれて赤を入れてくれる恵まれた状況は十分に活用したほうが良いものができるのではないかなと思います。ぶっちゃけどれだけ赤入ろうが最終的に読者に良いものを届けられることができれば大成功ですから。
一方、赤の数以上に気になったのは、成人年齢が18歳に引き下げられたことをうけて、多くの高校生が高校卒業前に成人を迎える状況になったことをふまえてブラック校則などのトピックをあげながらメッセージを作ったものが本当に適切なのかということです。数は少ないながらも中卒で働いている人もいるだろうし、もしかしたら高校在学中に成人するという感覚は当事者の方でないと理解できないものかもしれない。そんな人に向けてもより普遍的なメッセージを寄せる工夫が必要だったのではないかと思います。高校生に特化した部分のボリュームをもっと絞って、「本を読もう」というメッセージをより厚くしてもよかったのではないでしょうか。そういった意味で私が編集者だったら「本を読もうという主題でリライトして下さい」と言っていたかと思います。
分量やペルソナ(想定読者)や掲載媒体が明らかになっていないのでなんとも言えないところはありますが、20ヵ所以上の赤を入れられたからといって決裂するようなものではないと思います。
あまり鴻上尚史氏を批判したところで生産的な何かがあるわけでもないのですが、せめて私が文章を書くときにはよりよいものを送り出せるようにしたいなと願うのでした。
(2023年1月10日追記)Twitterでのご反応
時節柄からか「鴻上尚史」のネームバリューからか、それなりに話題になったネタなのでTwitterで反応をいただいたようです。紹介しつつ、コメントしたいと思います。
そうなんですよね。趣旨は「自分自分で考えること」と「本を読むこと」で、成人の日のメッセージとしては毎年繰り返される陳腐な主張ですから、より正確そうな書き方をすると陳腐に見えてしまうというのはあると思います。そもそも成人を迎えた若者に(相対的な)年寄りがアドバイスやらメッセージやらを寄せるという風習自体が陳腐なものかもしれません。
体言止めのところは実際のところどういったリクエストがあったのか明らかになっていないのでよくわからないけど、もし「ヤレといわれたら」ということで書いてみたところです。もし私の原稿だったら「あんまりやりたくないな」という感じで、私も書いてて「それはどうか」と思ったのは事実です。
そのうえで若者に「刺さる」のがどちらかという話で、原文のほうがよいのではという意見は確かにあると思います。ただ、「陳腐」といわれそうなテーマで、目的が「新成人へのメッセージ」だとすると、小説というより評論に近い立ち位置の文章だと私は思うのですが、評論文として見るとどうしてもアラが目立つ印象があります。テーマや組み立てをショートストーリー仕立てにして小説寄りの文章にするのであれば原文のような書き方はハマるのではないかと思います。そもそも「鴻上尚史に新成人向けの評論文を書かせる」という企画段階で無理があったのかもしれません。
あともう一点、6段落目で「絶句」-「混乱」の使い分けを「絶句」に統一したのは改悪ではないかという反応もいただきました(検索に出てこなくなってしまったので、引用できないのが心苦しいですがご了承ください)。
確かに同じ表現の繰り返しを避けるという点では一理あるように見えます。しかし「絶句」と「混乱」では意味が離れすぎている上に若者だからといって「〇〇県人らしい格好をしろ」と言われて「混乱」する人いるのかな、いや普通「キサマは何を言っているのか?」状態なんじゃないかなと言う点で「混乱」は適切ではないと感じました。
差し替えるとしたら類義語やそれに準じた表現で「立ちつくす」とか「呆然とする」とかあたりですが、「あなた(読者)も私(筆者)と同じでしょ?」という構造を活かすために単純に反復するくらいで良いのではというのと、そこまでに「中学」「高校」が何度も使われるのを整理して貯金できたし、ダイレクトに訴えるのもありかということで「絶句」を重ねる案を書きました。表現を変えるということやる以上は、どこかでその理由を何らかの方法で匂わせたいところなのですが、評論文的なところでそれをやる余裕も理由もないので、この部分の言葉を使い分けるのは見送ることにしました。
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