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岩手は疫病とどう向きあってきたか 疫病との闘いの歴史をたどる

岩手県は、5月2日現在、全国で唯一新型コロナウイルスの感染者を出していません。

そんな岩手でも、江戸時代、天明の大飢饉(1782-1788)では餓死者40,000人に対して、疫病によって23,000人が亡くなったといいます。

致死率が高く、特効薬のなかったコレラは「虎列刺」と書き、明治15年(1882)、関東地方の流行から、釜石港に停泊した他県の船から感染者が次々と見つかり、沿岸を中心に感染が広がっていきました。

江戸幕府から送られた「対処法」のお触書(暴瀉病予防書)によると、予防法は「木綿の腹巻をして、大酒を飲まず、食べ過ぎない」とあります。とにかく感染しないように不摂生しないこと。

北上市では、今年3月、「新型コロナウイルス退散」をうたい、伝統芸能「鬼剣舞」が各地で一斉に行われました。「悪霊退散」の願いが込められていますが、特別に奉納するのは東日本大震災以来だそうです。

医療が十分に発達していない時代より、飢饉や疫病が、人を疑心暗鬼にさせ、不安や恐怖が差別や分断を生じさせた歴史を学ぶ必要があります。

菅江真澄は天明飢饉翌年の天明8年(1788)に岩手を旅して日記に残しています。

現在の岩手県一戸町で、山里にある家に泊めてもらう。飢饉明けとあって、出された食事は、粟のご飯のみ。今年もコメが凶作で、十分に収穫できなかったというのだ。その夜のことだった。真澄は、ある音で目が覚めた。こっそりのぞいてみると…主人が刃物を研いでいるようなのだ。折しも、飢饉の翌年…

「もしや、私は殺されるか…それとも脅されて金を奪われるのか…」と怯えた。その後、様子をうかがっていると途中で若者が起きてきた。真澄は「いよいよ私は殺されてしまうのか…」

と思った。足音が近づいてきた。

しかし…出てきたのは、のんびり歌いながら仕事へ向かう、主人たちの姿だった。ほっと胸をなでおろした真澄。人を疑ってしまう心を恥ずかしく思ったそうだ。

菅江真澄(岩手県)06疫病神を追う祭り

疫病神を追う祭り
菅江真澄「岩手の山」より

「病の神ををひやらふまつり めおの鬼のかた 辟病こと 上におなし」

・・・黒岩(北上市)といへる村に入くれば、家ごとの門の柱の左右にわらのかたしろを作りて、弓箭(弓と矢 きゅうせん)、つるぎをとらせて、それがくびより、しとぎやうのものを、すずのごとくかけたり。風などをひしひしと人のやめば、かかる人のかたしろをつくり、もち、だんごにても、家々にすめる人の数ものして、人ごとに身のうちを撫で、糸につらぬきかけて門にゆひ立ておけるとか。はた、里などにて阿叫(おたけび)の鬼とて、紙に面のみかいて、にぬり、串にさしはさみて軒にさしてけるも、ふりことならずと、あないのいふ。

東北には、藁の人形を村の入り口や家の門に飾って疫病を祓う習慣が今でも残っています。

以下の2点は、天明2年(1782)美濃の旅、木曽路を歩いたときに描いたもので今残っている真澄の絵としては最も古いもの。

菅江真澄粉本稿05天然痘の子を養う乞食の習俗(信濃国)

信濃の国の御嶽の麓にて、天然痘の子を養う乞食の習俗
菅江真澄「粉本稿5」より

紛本稿 5 「しなのの国の山おく おほんたけの ほとりにてはもがさ(疱瘡)やむことまれ也 たまたまやみたる ちこあれはけちかき 山に持出てすておく かかるをかたゐらなと あつまりてやしなひてもかさいへたる日 そのやにおくりかへしぬ そときかへりみに かたゐにものなと とらせけるとか」

菅江真澄粉本稿06疫病の家で垣根をめぐらす(信濃国)

疫病の家で垣根をめぐらす
菅江真澄「粉本稿6」より

紛本稿 6 「右にひとしき ところにて えやみ(疫病み)すれは 其家のめくりに かきねしてかこひ ゆかりありける 人たりとも かしらさし入るることなし」

今も昔も、感染症拡大で一番苦難を引き受けるのは底辺を支える人たち。SNSで情報が瞬時に拡散してしまう世の中ではデマや噂が独り歩きして、災難がさらなる不幸を呼んでしまいます。ふだんは冷静な人でも自粛ストレスが他人を攻撃する心理へと変貌してしまうケースも見受けられます。

膨大な情報から、正確なデータと科学的な根拠だけを選択して、心を惑わされないよう心掛けたいと思います。

ワクチンが開発されるまで1-2年。登山者は自粛、山小屋は閉鎖、登山ガイドは職替え。医師の知見を軸に議論することは重要だが、その先に見えるものが、感染の犠牲者以上の死者が累々と積み重なっていくのでは人類の歴史においても不幸なストーリーすぎる。

1918年-1920年に流行したスペイン風邪は全世界で患者数約6億人、2,000万から4,000万人が死亡したとされています。A型インフルエンザウイルスの人=人感染による変異で翌シーズンの第2派で最大の犠牲者を出しています。

マラリアは1873年に発明されたDDTによって劇的な効果が上がりましたが、1948年に米国のレイチェル・カーソンが「沈黙の春」を著わし、DDTの生態系への影響を警告しました。他の研究者から発がん性も指摘されたため1980年代に世界中で全面使用禁止となります。するとDDT禁止後5年間で5億人が感染し、100万人以上が死亡しました。その後いくつかの殺虫剤が使用されましたが効果は薄く、2000年には再びDDTが使用されるようになり感染者64,622人(死亡438人)まで劇的に減少し、WHOは2004年、マラリア防止にDDT使用を推奨することになりました。

人口の減少を伴う災難の歴史を振り返ると、自然災害、飢饉、紛争、感染症などが考えられますが、金持ちであっても、権力者であっても感染症は不幸が平等に訪れる特徴があります。しかしながら、限りある医療資源の中では、トリアージが行われ倫理感が問われる場面もありえます。「善きサマリア人の法」のように、「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法体系が日本でも必要であると考えられます。

登山で危機に追い込まれた場合、チーム内で選ばれたリーダーは「ヒューマニズム」で武装されていなければなりません。全員の生命を救う判断を下すのは民主主義ではなく、チームは賢者であるリーダーの判断を受け入れる必要があります。仮に失敗しても一蓮托生の運命を受け入れる覚悟ができているはずです。

参考資料
岩手めんこいテレビ 2020年5月2日放映「岩手は疫病とどう向きあってきたか 疫病との闘いの歴史をたどる」
菅江真澄民族図鑑(内田ハチ編)1989年(昭和64)岩崎美術社発行

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