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リーダーシップとフォロワーシップ

年末から年始にかけて、大きなニュースが2つ飛び込んできて驚いた。元日産自動車CEOカルロス・ゴーン氏の国外逃亡と、トランプ大統領のイラン・スレイマニ司令官殺害。

大富豪と最大権力を持った大統領のお話で、我々の生活とは縁遠い世界とはいえ、不安、不平感、怒り、妬み、恨みといった感情を抱く。人類の誕生から現代まで繰りかえされるホモサピエンスの心の問題を少し考えてみた。

イスラエルの歴史学者、ユヴェル・ノア・ハラリ著「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」(河出書房新社)

物事をじっくり吟味してみるだけの余裕がない人が何十億もいる。仕事や子育て、老親の介護といった、もっと差し迫った課題を抱えているからだ。あいにく、歴史は目こぼししてくれない。もし、子供たちに食事や衣服を与えるのに精一杯なあなたを抜きにして人類の将来が決まったとしても、その決定がもたらす結果をあなたも子供たちも免れることはできない。これはなんとも不公平だが、そもそも歴史は公平なものではないのだ。

自分を含め世界中大多数の人々も、いつも人類の幸福について考えて生活を送っているわけではない。目先の快感や満足感、不満や怒りで脳は支配されている。歴史は公平なものではないし、「不安」が脳を支配すれば、人は簡単に間違ったリーダーを選んでしまうことを歴史が証明している。

私たちの「不安」に終止符を打つ方法は、心配するのを止めることではなく、心配すべきものを知ること、そしてその心配の程度を知ること。つまり、何をどう心配すべきなのか知ることが大事だと言っている。

そのために必要な効果的な行動は「Meditate 瞑想、熟慮」。そして21世紀に生きる私たちとって最も需要なことは

Mindfulness マインドフルネス(瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価せずに、とらわれのない状態でただ観る)

と言う。

 「Meditate瞑想、熟慮」がいかに大切か。そうすることでおのれ自身をより深く知り、物事の本質を取得し、決定できる。自らを犠牲にしても世のために貢献できるにはどうしたらいいかが見えてくる。

 著者はイスラエル人ですが、盲目的なユダヤ教徒ではない。インドのヴィパッサー瞑想を朝晩1時間実行し、1年に30日間は人里離れた土地で瞑想の修行をしている。ビーガンで、同性愛主義者だ。

21世紀を生き抜く最大の武器は仏教から来る「マインドフルネス」だそうだが、日々あくせく働く現代人にとってはなかなかハードルが高い。。。

国家間の競争は実際には驚くべき規模で世界的な合意が存在する。国際的な合意があるから競争もできれば協力もできる。気象変動など地球規模の課題が本当に解決できるか疑問に思い始めたときは、このことを思い起こすべきだろう。

この二年の間に国際協調は二歩ほど後退したが、それはこの先の千歩の前進の先ぶれに過ぎない。それなのに、どうして世界は衰退に向かうように見えるのだろう?

それは現代の大部分の人々は不運や悲惨を堪える力がなくなってきたせいで、昔に比べて暴力の絶対量は激減しているのに、なぜ毎年テロや戦闘で失われれる命の数に執着するのでしょう?

それは不正への怒りが強まっているからで、健全な傾向である。

どんどん複雑化していく世界にあって、私たちひとりひとりはどうすれば正しい知識を得て、正しい判断を下せるか?専門家に頼りたい誘惑にかられるが、専門家が大勢の人の意見に合わせているだけでないという確証は持てるだろうか? 

集団思考と個人の無知は、一般有権者や消費者だけの問題ではない。大統領や企業経営者も同じである。

人(サピエンス)は「ストーリー」を好む。宗教はすべて「ストーリー」から構成されていて、数億の人々がその「ストーリー」の虜になっている。これらは論理的でも科学的でもない単なる「ストーリー」に過ぎない。

民衆の自由を制限した独裁国家が繁栄した歴史はない。一時的に権力者の発する「ストーリー」に騙されて国家が成立するが、やがて崩壊する。

遺伝子工学の進歩はすでに「神」の領域に踏み込んでいるが、人類の英知を結集してルール作りが重要。

自動運転技術はやがて「トロッコ問題」に突き当たる。加速するグローバル化やAI技術の進歩について弊害の「不安」を感じる人も多いが、弊害より得るもの方がはるかに多い。

かつての農場労働者は機械技術の進歩で職を失うが、トラクター工場の労働者となった。工場労働者が職を失うと、こんどはスーパーのレジ打ちとなった。

新しい産業が生まれると、単純労働者の失業者が発生するが、またあらたな産業が生まれて雇用を生む。

AI技術の進化も次々と産業を生み出すが、やがて単純労働者の職を永遠に奪ってしまう恐れがある。

無人攻撃機プレデター1機には30人のオペレーターが操作し、そのデータ解析に80人の技術者がかかわる。人の命を奪う兵器を操作するオペレーターの育成には時間と費用がかかり、すでに人員が不足しているが、レジ打ちもできない人を採用するわけにはにはいかない。

そのような階層の人が今後大量に発生する可能性がある。

2019年の映画「ジョーカー」(監督トッド・フィリップス、出演ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ他)を観てきた。

主人公アーサーは黒人マイノリティーより下層のプワホワイト。かろうじて道化師の仕事をもらいながら認知症の母親を介護するが、自らの精神疾患が原因でその仕事さえ失う。幼少期のネグレストを思い出し、母親を殺してしまう。アーサーはジョーカーとしてさらに孤立を深めていく。救いのないストーリだが、このアメリカの格差と分断がトランプ大統領を生んだのではないかと思う。

2016年、トランプ大統領を予想した人は少なかったし、そのリーダーシップは予測のつかない展開が続いている。しかしながらこの映画を観て、アメリカ国民の多くが大統領にトランプを選んだ理由が漠然と理解できたような気がする。日本でも経済格差が大きくなってきていると実感はあるが、まだアメリカほどではない気もする。そしてトランプは今年再選するのではないかと。

ゴーン氏の逃亡劇もトランプ大統領も現在進行形で、その評価は数十年後に歴史学者が確定するのかもしれない。両者とも私には「ヒューマニズム」に欠けたリーダーだと感じる。

「ゴーン流改革」「ゴーンの奇跡」とコストカッターの腕を見せて「V字回復」を賞賛されたというが、リストラされた2万人労働者ひとりひとりの苦悩を想像しただろうか。首切りで業績を上げるだけなら誰でもできる。まともなリーダーだったら数百億を蓄財し、国外逃亡の成功を祝してワインで乾杯する動画を流したりできるはずがない。

政治も、経済も、学術も、芸術も、その分野でのリーダーは「ヒューマニズム」で武装されていなければならない。

登山リーダーは、登山活動中一定期間メンバー(フォロワー)の命を預かる。リーダーの資質はさまざまな要素があり、結局スーパーマンでなければ務まらない。そんなスーパーマンはいないことは理解した上で、メンバーはリーダーを選ぶ。

登山リーダーのもっとも重要な要素が「ヒューマニズム」であることは間違いない。

元文部省登山研修所所長、故柳澤昭夫の「判断が正しくあるためには」

 判断とその意志決定を誤れば生命の危険に関わるような危機的状況下では、冷静に思慮深く対処できる事はむしろ稀で、判断を人に任せる者、「どうでもいいや」となげやりになる者、判断しない者、判断しようとする意志さえ失う者、願望に基づいて判断する者、可能性を把えられない者、困難を拒否する者、耐えることを拒否する者、否定的要素を拡大する者、全体を把えられない者、部分にとらわれる者などなど、人の弱点を露呈し混乱に陥り、最悪の場合にはチームが分裂することさえある。

ことに、混乱の中に放り込まれた経験の不足・対話やディスカッションの不足・体験的学習の不足、経験不足、満ち足りた社会生活による感性の鈍化などが要因となって、こうした危機的状況を拡大する。

不確実な要素、未知な部分など曖昧なところを含有する判断が、より正しさに近づくためには、

① 論理的、科学的に思考する。
② ディスカッションを深める。
③ 複数の意見を尊重する。
④ いくつかの選択肢を仮定し、可能性が低いもの、危険要素など否定的要素が多いものから消却する。あるいは、肯定的要素の多いものを選択する。

等々、さまざまな方法があるだろう。確かにこれらの方法は、より正しさに近づくための方法であると言えるし、プロジェクト的に目的を追求する場合の有効な方法論であることも間違いない。

 
しかし、こうした方法が有効であるためには、前提条件として登山における集団が等質に近い人間で構成されている必要がある。何故なら、等質でなければ多数が正しいとは言えないし(1人の賢者のほうが多数の愚者より正しい場合もある)、討論で思考を深めることはできにくい。

 
しかし、実際の登山チームは残念ながらレベルの高い等質チームではなく、知恵のある者・ない者、未熟な者・経験の深い者・強い者・弱い者、さまざまな人間でチームは構成される。本来なら、チームの中で最も質的レベルの高い優れた者を(賢者を)リーダーに選出したのである。ディスカッションや多数決、選択肢の消却方法で、質的レベルの違いを乗り越えることができない事を前提にして、リーダーを選出したのである。賢者の判断はたとえ独断であろうと、質的レベルの劣るフォロワーの判断より正しい結論であるとして、決断をリーダーに託したのである。

なおかつ、山登りにリスクがあることを覚悟の上でリーダーに最終判断と意志決定の絶村権を付与したのである。何故なら、チームの混乱は破滅、遭難を意味するからである。危機に直面してチームが一つになって力を合わせてはじめて、ピンチを困難に変換することができる。したがって、フォロワーは全面的にリーダーを信頼しなければならない。仮にリーダーが誤りを犯したとしても、それを容認し、一連托生を覚悟したのである。チームの生死を背負ったリーダーの荷物は重い。リーダーは全体を正しく把える総合力とともに、全員の生命を救うというヒューマニズムで武装されていなければならない。

自然の事象の多くが科学的に今より把えられなかった時代、自然を敬い・自然の恵みに感謝し・自然を畏怖していた頃、経験深い知恵ある長老を賢者として尊敬し、その決定にしたがっていた。少しばかり科学が進んで、人が少し傲慢になって自然の支配者として思いあがった時、長老の知恵を否定するようになったのであろうか。それとも自然から遠のいて感性や経験がさびついてしまったのだろうか。

 
近年、自己責任やリーダー責任などを追求する場合が多いが、登山の場合、判断が正しくあるため、そしてチームとしてまとまった行動を決定するため、リーダーの判断はチームの判断であり、リーダーの責任、フォロワーの責任、自己責任など分けて考えていいだろうか。リーダーは決していいかげんであってはならないが、登山では互いに生命をかけ助け合うチームである以上、自己責任やリーダー責任など、マニュアル的に分散することなど許されないはずである。

 
チームはヒューマニズムで武装されていなければならない。喧嘩したり、いがみあったりしてもいい。だがその根底に、お互いを思いやるヒューマニティが溢れていなければならない。それが山男の尊厳であり、誇りである。最も大事なことは、生きて還ることであることはいうまでもない。そのためにリスクを覚悟の上で、一蓮托生を決心してチームを組んだのである。一蓮托生を覚悟できないかぎり、生命を預けあうチームワークは生まれない。

命のかかった困難な登山を目指す場合、そこに民主主義が存在できないことを私たちは歴史から知っている。さまざまな分野でリーダーを選ぶ時、柳澤先生の言う「登山のリーダーシップ」が参考になればと思う。

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