読書メモ 戸田山和久著『科学哲学の冒険』第五章 強敵登場!

科学法則もジェンダーのように社会的に構成されたものに過ぎないとする社会構成主義。そーかる事件では社会構成主義の是非とその他の問題点がごっちゃになっていた。社会構成主義と反実在論は似ているが重要な点で異なっている。

人間の認識とは独立な世界の存在や秩序を認める立場を独立性テーゼ。
世界のありさまを科学によって知ることができるという考えを知識テーゼと呼ぶ。(本書独自の呼び方?)この両者を認める立場が科学的実在論。しかし、この両方を主張するのは哲学的にはツッコミどころが多く難しい。そこで独立性テーゼを捨てた立場が観念論。バークリは近くから独立して世界は存在しないとした(その上で世界は神の知覚の中に存在しているとした)。カントのドイツ観念論では認識から独立した世界の存在は認めるが独立した世界の秩序は認めないとした。

社会構成主義者のハリー・コリンズは自然界の秩序は社会が押しつけたものに過ぎず、社会が変われば自然の区切り方も規則性も秩序も変わるとした。ブルーノ・ラトゥールとスティーヴ・ウルガーは科学者集団に文化人類学的方法で参与しフィールドワークを行った。彼らは科学は組織的にその産物が社会的構成物であることを隠ぺいするようにできているとした。このように社会構成主義は知識テーゼを認めつつ独立性テーゼを認めない観念論的な主張。

一方、独立性テーゼを認める立場を広義の実在論と呼び、その中でさらに知識テーゼを認める立場を科学的実在論、知識テーゼを認めない立場を反実在論と呼んで区別する。反実在論が知りえないとするのは電子やクオークのみでで直接観察できるマクロな対象の存在やそれに対する法則は知りうるとする。ブリッジマンは「ある実験ではこういう結果が、この実験ではこういう結果が、・・・」という長い文章の省略形として「電子はしかじかの負の電荷をもつ」という主張があると考ええる操作主義の立場を示した。一方、電子という言葉には何の意味もなくて、ただ観測可能な対象に関する法則を一つにまとめたり予言を導く仲立ちをするにすぎないとする道具主義(instrumentalism)という立場もある。現在ではどちらも支持者は少なくなっている。ファン・フラーセンは観察不可能な対象に対する科学的な主張は文字通りに解釈すると間違っている場合が多くあり、科学に正しさを求めている人たちには都合が悪いとした。そこで、科学の目的を心理の探求ではなく経験的に十全な理論を作ることとした。経験的に十全とは「観察可能な領域についての主張が正しい」という意味。この構成的経験主義のファン・フラーセンは物理学を専門とする哲学者で、技術の応用は誰も否定しないが、物理理論の解釈について様々な議論があることを前提にしている。

観想:重力の正体がエーテル(デカルトの渦動説)だったり万有引力だったり時空間のゆがみだったり色々に変わるんだから社会構成主義もそうおかしくないのではないかと思ってしまうが、本書ではかなり否定的に評価されている。


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