読書メモ 戸田山和久著『科学哲学の冒険』第六章 科学的実在論vs反実在論

ある時期のパトナムは奇跡論法を用いて実在論を擁護した。つまり、直接に観測できない事柄を認めないと科学の成功は偶然の積み重ねによる奇跡になってしまう、というもの。奇跡論法はアブダクションの一種。

社会構成主義者のコリンズは実験家の無限後退という議論を提出。これは、理論Tを証明するための装置Aは理論Tを用いて調整されされており・・・というもの。ファン・フラーセンは科学の成功には説明はいらないとした。

ラリー・ラウダンは奇跡論法の意味では科学的に成功していたが後に間違いが判明した理論を挙げ、おそらく成功している議論はいずれ失敗するだろうという、悲観的帰納法を用いて奇跡論法を批判した。これに対しては、1過去の成功した理論は実は成功した理論ではなかった。2理論の儀であった部分は実は理論には関係していなかった。という二つの反論の仕方がある。

ファン・フラーセンの反実在論は観察可能なものとそうでないもので科学を二つに分けて考えるため、両者の境目がどこにあるのかが問題となる。ファン・フラーセン「観察すること」と「検出・検知すること」は違うとした。そのうえで、両者のボーダーラインとなる曖昧なケースがあったとしても、この区別が無意味だということにはならないとした。

反実在論における決定不全性は、ある観察データのあつまりから複数の理論が導き出され、観察データからはひとつに絞ることはできないというもの。

実験結果が仮説を半焼するには「仮説Hを認めると予言Pが生じる。しかし、実験の結果Pは正しくない。よって仮説Hは誤り」というモードゥス・トレンスが行われなくてはならない。しかし、実際の科学ではたくさんの補助仮説を置いて予言がなされるため、反証されたのは仮説の集合であり、どこが誤りであるかはわからない。これが決定実験の不可能性で、ぽぱーの反証主義への批判にもなっている。

しかし、現実には理論は一つに定まるようになっている。実り豊かさ、ほかの理論との整合性統合性、単純性と美しさ、新奇性、応用可能性、理解しやすさ、などがその決定要因と考えられる。

この後、本書では恐竜を滅ぼした隕石衝突を例に挙げ、観察可能(隕石はマクロな実態がある)だが観察していないことに対しても決定不可能性が成り立ってしまうのはおかしいのではないかと指摘している。

でも自分は過去の歴史的なイベントは決定不可能とする見方をしてもなにもおかしくないと思う。隕石衝突説も最も有力な仮説というだけだし、聖徳太子の実在性のように諸説あるものがある。

第七章へ続く

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