読書メモ 戸田山和久著『科学哲学の冒険』第三章 ヒュームの呪い

帰納法は心理保存性を持たないが、科学には大々的に用いられている。帰納法で帰納法を擁護しようとしても循環論法にしかならない。自然界には常に一定の法則が働いているとする「自然の斉一性の原理」を基礎的な前提といて置く考え方もあるが、これによって帰納法を正当化することもできない。ヒュームは帰納には全く合理的根拠がないとする帰納への懐疑論を唱えた。この問題には現在でも結論が出ていない(第9章で細述)。

カール・ポパー(彼自身も論理実証主義者)は科学に帰納法が含まれないと考えることで解消しようとした。「反証主義」。仮説は普遍量化文(すべての~である)の形をしているが、これを完全な形で検証することはできない。一方で、仮説に対する反証はモードゥス・トレンスの形を取る。そこでポパーは、科学を仮説に対する反証を見つけて反駁する「推測と反駁」の過程とみなし、これに生き延びた仮説を「強められた仮説」と呼び、仮説演繹法のように仮説が確証されることはないとした。

ポパーの考えでは、仮説の強さと確からしさは無関係なので、予測力の高い仮説を求めて科学を応用しようという科学の目的はうまく掬いとれていない。しかし、科学と似非科学を区別するうえでは有用。ポパーは、科学は反証可能だが、似非科学は反証可能ではないという区別をおいた。しかも、間違っている可能性が高いほど良い仮説といえる(著者の意見?)。(科学と科学でないものを区別することを線引き問題と呼ぶ)

6月30日までの緑色のものと7月1日以降の青のものを意味するグルーという造語を考える。「すべてのエメラルドは緑色である」「すべてのエメラルドはグルーである」という二つの命題を考えることができる。これは、7月1日になれば、グルー仮説が間違いであることが分かるが、それ以前では緑色仮説もグルー仮説も同じように確証されてしまっていて、予言を一つに絞れなくなる。グルーという言葉は明らかに使うべきではないが、その理屈が昨日の原理の中に含まれていない。しかも、グルーの定義は日付によって変わっているわけではない。帰納してよい述語を「投射可能な述語」と呼び投射可能でない述語との違いは何だろうかというのが帰納法の別な問題として存在する。これをグルーのパラドックスと呼ぶ。

仮説や法則を普遍量化文ではなく「もしそれがFであれば、それはGであっただろう」という反事実条件法を満たすものである、と考える。「誰それの財布に入っているすべての小銭は100円玉である」は正しく成り立っていたとしても法則とは言えない。FやGに何が入るかが、法則か否かに関わる。グルーのパラドックスは、投射可能・不可能性の区別は、法則的一般化と偶然的一般化の区別の問題でもある。

第四章へ続く


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