読書メモ 戸田山和久著『科学哲学の冒険』第九章 自然主義の方へ

筆者の戸田山先生が科学的実在論をとる理由が語られる。まず、第一に氏の直観にしっくりくるからというのが前提として示される。それから、科学への信頼を取り戻したいというのが二つ目の理由として語られる。筆者が、科学への信頼が落ちていると考えるのは、二つの側面があり、一つは科学が万能ではないということが、世界について理解する科学以外の方法がある(オカルトなど)に飛躍してしまうことがあり、それに対して、この世界についてよい知識を与えてくれるのは科学以外にないと考える、というのが科学への信頼の一つの側面。もう一つは、若い学生から「世界の丸ごとをわかりたい」という気持ちが失われている、というのが科学への信頼が失われていると感じる別の側面であるという。

科学的説明には「もし仮に説明項が存在していなかったら被説明項も存在していなかっただろう」という反事実的依存を取り出しているという共通項が存在する。このように、味論的とらえ方では、様々な説明を統一的に特徴づけることができる。

文パラダイムでは理論を言語的対象として捉えて、理論と実在との間に意味論的関係を考えてしまう傾向にあった。理論は、じかに自然界という実在システムに照らし合わせて、真か偽かと判定する。この場合、科学的活動で価値があるのは「心理」という白か黒かのものになってしまう。

意味論的とらえ方では、理論と実在の間には構造的類似関係しかなく、これは抽象化の程度によって似方に段階があり、様々な程度が許容されている。このように程度を許容する見方なら、帰納法に合致しない科学理論をラディカルに間違っていると見做す悲観的帰納法に抵抗できる。

科学の目的について、文パラダイムでは真なる文の集まりに到達すること。反実在論では経験的に十全な理論を立てること。筆者の考え(科学的実在論)では、実在システムについて重要な点でよく似たシステムを作ること、とする。

その科学の目的にどのように近づいているかを知ることができるのか、という問題は科学の方法論を正当化しようとするときにも出てくる。これを「方法論のメタ正当化」と言う。

科学的実在論は科学が科学を説明しようとするときの一つの仮説だと考えることができる。筆者は、科学がこの世界の様々な対象を操作する能力が向上していることを、モデルが実在システムに似てるとする根拠と考える。科学の内側から、科学のやり方で、科学が実在に近づいているということを一種の科学的仮説として示そうとしているのが科学的実在論なのだが、そのようなプログラムは「科学のやり方で科学のやり方が正しいことを示す」という循環した形をしており、「帰納法を使って帰納法が正しいことを示す」ヒュームの呪いと同じ形をしている。

ヒュームの呪いについては、間違った前提に基づく疑似問題だと考える立場がある。ストローソンは「論理法則に従って推論することは、合理的であることの基本的な事柄の一つで、何かを正当化するために帰納法をつかうのも合理的な態度の一つであり、ヒュームの呪いは『合理的であることが合理的か』という問いを立てて苦しんでいるにすぎない」とした。

ファイグルは正当化と漠然と呼ばれていたものを、ある原理をもっと根本的な原理から導き出す「妥当化」と、そもそもの目的をその原理が果たしているかと示す「擁護」に分類。ヒュームが帰納法に妥当化を求めていたのならそれは的外れな要求であるとした。

循環論法には「Aである。ゆえにA]のような前提における循環と、ヒュームの呪いが示すような規則における循環があり、循環してるからダメとも言い切れない。帰納法を擁護するのに帰納法を使うなというのは、行き過ぎた要求で、帰納法を擁護するのは、事実としてたいていの場合信頼できることが示されればよい。

科学に先立って帰納法の是非を探求するのではなく、すでに使われている帰納法についてチェック作業として考えようというのが自然主義の立場。哲学的探究を科学の中に埋め込まれた経験的探究の一コマとして捉える。我々は帰納法が使える世界に住んでいる。帰納法が使えないほどカオスな世界ではそもそも生物が発生せず科学の営み自体なかったかもしれない。

感想:なんか人間原理みたいなところに落ち着いた


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?