【6月13日】指揮者・岩城宏之(1932-2006)の命日

没後15年。大叔母夫妻の家の近所に住んでいたので子供の頃から名前だけは知っており、中等科・高等科の先輩でもあったので心理的に近く感じる存在だった。1995年秋(中等科3年生)にクラシック音楽に興味を持って以降はたくさんのコンサートに行き、躍動感と人懐っこさの交錯する音楽作りを味わえた。今なお名前が頭に浮かぶと気持ちがざわめき、ワクワク感が身体に拡がる。

岩城宏之の名が世界に轟いたのは1960年のNHK交響楽団世界一周演奏旅行。後に盟友となる外山雄三(1931-)と2人で殆どの公演を指揮。岩城のガッツあふれる音楽、そして激しいアクションが注目を集め、「東洋の火山」と言われて帰国後は世界中のオーケストラから次々と客演依頼が舞い込んだ。

1960年代後半にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、バンベルク交響楽団、コンセルトヘボウ管弦楽団といった名門楽団から複数回招かれるようになり、1977年にはハイティンクの代役でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に登場。小澤征爾と双璧を成す日本が世界に誇るスター指揮者となった。文才もあり上記の『楽譜の風景』や『フィルハーモニーの風景』(ともに岩波新書)などで大音楽家や名門楽団の挿話を楽しい文章で綴った。『フィルハーモニーの風景』は1990年日本エッセイストクラブ賞を受賞している。

旺盛なチャレンジ精神で内外の同時代音楽を積極的に取り上げ、多数の作品の世界初演・日本初演を行った。その過程でメシアン、武満徹、黛敏郎など20世紀後半を代表する作曲家たちと親交を重ねた。

1974年にメルボルン交響楽団の音楽監督となり、文字通り世界を股にかけて活躍していたが、1980年代後半以降は健康上の問題で国際的な客演活動は縮小を余儀なくされた。しかし、そこで国内オーケストラをぶらぶら客演する余生を送らなかったのがこのひとの反発心。
1988年、新しく誕生した室内オーケストラ、オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督に就任すると海外演奏旅行や大規模な録音プロジェクトを次々と敢行。私財まで投じて邦人作曲家に委嘱して、その作品を録音する「21世紀へのメッセージ」は高い評価を得た。かつて自身が脚光を浴びたベルリンにオーケストラ・アンサンブル金沢を連れていき、フィルハーモニーの室内楽ホールで邦人作品を披露したところに岩城の「こんちくしょう。どうだ」という意志を感じる。

病との闘いは終生続いたが、晩年の2004年と2005年の大晦日には日付をまたいで一晩でベートーヴェンの交響曲全9曲を披露するマラソン・コンサートを成功させた。

筆者の手元には2006年に予定されながら逝去で幻となったコンサートのチラシがある。

ポピュラーだがなかなかコンサートでまとめて聴く機会の少ないオペラの序曲と内外の同時代音楽の名作を組合せた、いかにも岩城らしいプログラム。このチラシを見るたびに身体の故障を抱えつつも「日々新たなり」で走り続けた姿がまぶたに浮かぶ。本当に楽しい思いをさせてもらった。感謝。

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