ながれ

流れてゆくべきもの、とどまるべきもの。

SNSが日常になった私たちの生活は、
気づけばストックの連続になっている。
「今日食べたもの」
「嫌な出来事」
「自分の思い」
そんなことを連続して、私たちはストックしていく。

はて。
このストックしていく行為は私たちの本質。
人が本来持つ記憶のそれとかけ離れてはいないのか。
そんなことを考えているうちに、思い至った。

どうして、私がTwitterが好きで、Facebookが苦手なのか。
そしてそれが私たちの本質とも深く繋がっているように思いはじめた。

SNSには、noteやブロクのように、
「留めておくべきもの」「留めておきたいもの」
「繰り返しあとから読みたいと思うもの」
(これは、本人あるいは他者にかかわらず)
Twitterのように、行動も思考も感情も時間と共に流れて、そして必要なものだけを残していくもの。
Facebookのように、
本来流れていくべきものと、留めておきたいものが混在しているもの。と、大きく分けて3つに分類されるように思う。

記憶という側面から私たちを眺めてみたい。
小さい頃に食べたもので記憶に残っているものには、きっと、その背景、何か理由と一緒に記憶されているのではないだろうか?
反面、記憶に残っていないものも多くあると思う。
そして、忘れてしまいたいものと、忘れたくないもの。
に分かれるのではないだろうか?
私は脳のしくみには詳しくないし、記憶を扱う専門家でもないので、あくまでも推測でしかないけれど、人はこうして、思考や感情を流したり、留めたりしながら歴史の中を生きている。

けれど、そこにSNSが入ってきて、少しずつ記憶の形態が変化を始めた。
本来忘れてしまうような、忘れてもいいもの、あえて記憶に残さないものを「記録」として残すようになった。外部記憶みたいなものが出来た。
加えて、誇示したいものを記録にあげていくことも多い。

そしてその外部記憶を開示することで、他の人の記憶をも垣間見ることになった。

これはきっと。
私たちの持つ、本来の脳の機能を著しく低下させているだけでなく、記憶という、本来私たち人間の持つ「流すべきもの」「留めておくもの」という本能ともいえる部分にも大きな影響を与えているのではないかと思う。

SNSが社会に大きなポジションをしめた今、
私たちは、留めておきたいもの、流すべきものは、それぞれの判断に委ねられている。何を残し、何を残すのか。を。

私はTwitter派で、本来の記憶のように留まることなくタイムラインに流れていくものを心地よく感じるのだ。
あえて怒りや、悲しみを外部記憶媒体に残す必要はないと考えているからだ。

人の価値観が問われる時代。
自分ですべてを選ばなくてはならない時代でもあるのだ。
何を選んで、何を残すのかをね。


今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
それではまた明日。

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