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本を読めない読めないといいながらも本を読むことについて<人生の本とは>

娯楽としての読書、から少し離れて、今回は「自分の人生における正典100冊」の話。
これは、たまたま手にとって読み始めた、『百冊で耕す』という本で書かれていることで、人生の100冊というものを、人生をかけて作っていくことを言っている。

100冊は多いかどうか

正直にいうと、「少ないな」がわたしの第一印象だった。
“たった”100冊。
それだけで、わたしの人生が表せるのか。
いや無理。
無理だろう。
でもものは試しと、真っ白い紙に「わたしの100冊」を書き出してみた。
書きはじめてすぐにつまづいた。

はたして、シリーズものは1冊とみなすかシリーズそれぞれを計上するか。

という問題にぶち当たったからだ。
これは由々しい事態である。

シリーズものをどう扱うか

わたしの場合、「シリーズ全部好き」と「シリーズの中でもこれが好き」の2パターンがある。
ついでにいうと、「シリーズ名がタイトルで、巻数しかない」ものも存在する。
そうした場合、『◯◯◯』1巻、2巻、3巻…… と全て計上するのだろうか。
そういうシリーズの場合、物語の区切りがあいまいで、どの巻にどのエピソードが載っていたかよく覚えていなかったりする。
『本好きの下剋上』がこれにあたるが、シリーズ全体を通して好きなので全部好きではあるのだが、全巻計上するとそれだけで33冊食う。
これでは他の本が入らない。
同様に、「スレイヤーズ」シリーズは短編が40冊近くあるが、これはまあ本編のほうを18冊計上しておけばよいだろう。
それにしたって、18冊は多い。
もっと絞るべきだろうか。

こうしてシリーズものに囚われるいっぽうで、明確に「この巻は好き」「この巻はそうでもない」というシリーズも存在する。
その場合は、好きな巻だけ計上すればよいので問題がない。
その塩梅が難しい。

過去の本たちについて

一度シリーズに囚われると、単発で好きな作品を見落としがちになる。
意識が質より量に乗っ取られてしまうからだ。
わたしは本をリストアップする際に、できるだけ古い記憶から書き出しているのだが、気を抜くと一気に5年10年経ってしまって、大人になってから読んだ本ばかりになってしまう。

あのころ、あの本を好きだったはずだ。
あのころ、あればかり読んでいたはずだ。

そういう本はたくさんある。
幼稚園、そして小中学時代の本はたくさんある。
でもどうしても、意識が高校以降に飛んでしまう。

これには理由がひとつあって、わたしは一度、たしか中学か高校のときに、本棚の一大整理をして、「いらない」本を売ったのだ。
その時に手放した本は、いま100冊リストに載らない。
あのとき、あれだけ好きだったはずなのに。

『赤毛のアン』がある。
『クレヨン王国』がある。
『霧の向こうのふしぎな町』がある。
『ネシャン・サーガ』がある。
『アルジャーノンに花束を』がある。
『裏庭』がある。

衝撃を受けた本がある。
何度も読み返した本がある。
心に刺さっている本がある。

けれども10代のわたしは、「10代というこどもっぽさ」から抜け出したかった。
中二病というよりか高二病である。
高二病のわたしは、小学生の自分を切り捨てたかった。
中学生の部分を切り捨てたかった。
それで、本を片付けた。

今わたしの本棚に残っている本のうち、小学生以前からの本は、本当に数えられるほどしかない。
そう、たぶん、数十冊程度。
しかもそのうちの半分は、後から買いなおした本である。

三つ子の魂、百まで。
高二病は受け入れなければ治らない。
大人になったわたしは、中二のわたし高二のわたしも全部ひっくるめて好きな本をリストアップするけれど、本棚から消えた本は記憶からも薄れていく。
読み返すこともない。
そうすると、リストアップする際に漏れてしまうのだ。

はたしてこれは、自分の100冊と言えるのだろうか。

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