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苦しい9月1日をすごした息子へ、私ができること。

次男の「気持ち悪い、気持ち悪いかも」という発言は、増えることも減ることもなく1日の中で何度か聞かれるままだ。


次男は9月1日、欠席をした。

朝から「もう無理、気持ち悪い」と言って玄関でダイノジになってみたり、ローマ字のCの形になる。


家にいる間は時々気持ち悪いとは言うけれど、いたって元気そうに見えて、学校でも同じ様子だそう。

本当に気持ち悪いのか、悪くないのか母親である私にだって本当のところは分からない。次男の身体の中のことは次男にしか分からない。

けれど、「気持ち悪い」という言葉を使ってSOSを出しているのは確かで、だとすればそれを取りこぼすまい、と強く思う。



欠席した日、話を聞いてみた。


「学校、いやなの?」


「いやだよ、でもみんな頑張って行ってるし俺だけさぼってちゃいけないんだよ。」


「みんな頑張ってるかもしれないけど、少し頑張れば学校に行ける人、たくさん頑張らないと学校に行けない人、頑張らなくても学校に行ける人、いろんな人がいると思う。次男は気持ち悪くなってとても苦しくなってしまうなら、休んだっていいと思うよ。教室に行くのが嫌なら、〇〇学級(特別支援級)に行ってみる?」(兄が特別支援学級に在籍している)


「俺は、〇〇学級の子じゃないから遊びにいっちゃいけないんだよ!」


「先生に聞いてみたらどう?」


「駄目だよ。」

「まだ駄目って言われていないよ、聞いてみたらいいよって言ってくれるかもしれないし、駄目って言われたらまた一緒に考えようよ」

「駄目なんだよ!」


次男は、傷つきやすく繊細だと思う。

吐いちゃうことが怖い発言のその背景には何かあるんじゃないだろうか、と考えていた。氷山みたいな感じ。いくら”気持ち悪い”という見えている部分にばかりフォーカスしても海面の下のもっと大きく広がった部分にアプローチしなければいけないんじゃないか、って。

彼のタイプは、世の中に出たら少数派で生きづらさを抱えて生きていくタイプ。私がそうであったように集団生活の中ではすごく苦しくなってしまう場面が多い。彼も自分のそんな一部分に気づき始めたんじゃなかろうか。


上のやりとりからも見えるように、何かを提案して駄目って言われることをとても怖がっている。それもまだ、提案する前の段階で。たぶん、前にもそういった経験をして覚えているんだと思う。

先生は別に次男を否定したつもりでなく、その提案に対してノーかイエスかという答えを出しているだけなのだけど、まるっと自分が否定されたような感情を抱くんだと思う。だから、なるべくそういう場面を避けたい。


かといってじゃあどうしたらいいんだろう?と自分で考えを凝らすことは物事への想像力が乏しいので難しく、苦しさを手放せずにいるんだろうな。



思えば私もよくお腹が痛いと言って学校を休んでいた。そんな時は母は、休みたいといえば休ませてくれた。心配もしなければ、優しい声かけもないけれど次の日には学校へ行くことが出来た。

私も集団の中で生きていくには、かなり危なっかしかったから母も気が気じゃなかっただろう、と思い”私って幼いころ、本当に大変だったでしょ、苦労をかけたと思う”と言ってみた。母はスーパーの特売のチラシを見ながら私に目もむけず、

「え~覚えてないや」だそうな。


母は思えばかなり放任主義だった。

自営業を営んでいて忙しく私にまで気が回らない、ということもあったと思うけどそれにしても放任だった。

夏休みの宿題が終わってなかろうが、学校をさぼっていようが、友達とトラブルを起こそうが私には何も言わなかった。それでも私に手を差し伸べてくれる周囲の人たちや、友人がいたことを思うと母は私の知らないところで私への理解を求めたり、謝罪をしてくれたりしていたんだと思う。

何度も言うが本当に何も言わなかった。怒りもしないし、褒めもしない。だけど

無言で家を出ていく思春期の口をきかなくなった私の背中に、母は毎日毎日「いってらっしゃい」を言い続けてくれた。いくら「いってきます」が返ってこなくとも毎日、必ず。


大人になり、自分の生きづらさと向き合う中で医師に言われたことがある。

「ほっといてもらえて、よかったですね。それがいいの」




担任ともやりとりし、支援学級の担任ともやりとりをしながら少しずつ次男が苦しさを自分で手放していけるように、アプローチしていこうとなった。



私は母みたいにどっしり構えてほっとくことは出来ないけれど、次男のSOSを取りこぼさないよう、後ろに立ってみたり、横にたってみたり、時には私が前に立つこともあるかもしれないけど、そんな風に一緒に歩いていきたい。

こうした時、私はいつもやりすぎる。声もかけすぎるし心配もしすぎる。でも親ってそういうものなんだと思う。だって、大切なんだもん。できれば転ばせたくない、痛い思いも苦しい思いもさせたくない。でも、生きていく限り無理だし、それは彼を本質的に大切にしているか、と言われるとそうではない。


私が今できることは、次男の気持ちに寄り添うこと。

言語化するのが難しい場面にヒントを出していく。そして、自分の苦しい胸の内を誰かに伝えることで助けを求められる術を教える。


だけど、考えれば考えるほど親ができることのあまりの少なさに気づく。

もう最終的にはいつもご機嫌で、美味しいご飯を食べさせて”楽しい”をたくさん共有していく。これに尽きるんじゃないだろうか、とも思う。



そうだ、今夜は次男の大好きなハンバーグを作ろう。







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