映画「福田村事件」をみました
映画館に各種割引があることは周知の事実かと思う。
その中の1つにファーストデーというものがある。映画の日(12月1日)を除く、一般的な割引の中では最も割引率が高い。
毎月1日はファーストデー。10月1日は休日ということもあって、チェックしていた「福田村事件」を観に、渋谷のユーロスペースへ向かった。
「朝鮮人なら殺してもいいのか」と言う行商人を、無表情に殴りつける村の女性。
虐殺の始まりとともに気持ちを駆り立てるかのように響く太鼓の音。
自警団の正義。
あまりの悔しさと虚しさに流れる涙。
観賞直後の後味の悪さ。
私はこれからどうやって生きていったらいいんだろう。何を根拠に自分の行動を選択したらいいんだろう。そんなことを思いながら帰路についた。
映画「福田村事件」のあらすじは以下。
この映画は史実をもとにしたフィクションだ。公式サイトには「序説」として史実の説明もある。
この事件を一言で表現するとき、多くの場合は「集団心理の怖さ」というのかもしれないが、何もこれは、一人一人ではやらないことを集団になるとやってしまう、というような無責任な話ではないと思う。
主だった登場人物たちは皆、自分の中にある「正義」に従って突き進んでいるように思う。特に、終盤に殺されたのが日本人だと分かった際に、水道橋博士が演じる自警団の一人が泣き喚くようにして放つ言い訳じみたセリフは、決して言い訳ではなく、それが「正しい」と信じていたことがひしひしと伝わってくる場面だった。
作品を観る現代の私たちから見れば、香川の行商団や千葉日日の女性記者が「正しい」とされる人々である。しかし、当時自分がここにいたら、果たして彼らのような判断ができたか、彼らのような行動が取れたか、正直私は自信がない。
また、同じようなことが現代で起こったら自分が正しい選択を取れるのかについては、もっと自信がない。
流言、不安、権威、大多数の人が信じていること、それらを一旦疑うことができたとしても、その疑いを確かめる術がないとき、私はどうするのだろう。
怖くなった。自分の頭で考えるということはどういうことなのか。自分の頭で考えられるようになるにはどうしたら良いのか。
数日前にちきりんさんの「自分のアタマで考えよう」を読んだ。とてもいい本だったが、本の中身の話はまた今度にする。
本を読んだところで、私にはちきりんさんのような深い思考はできない。実際、考えた結果、鑑賞後にぼんやり思ったことと同じ結論が出た。それに感覚的にわかることばかりで真新しい視点が見つかったわけでもなかった。なので「時間をかけたわりに同じじゃないか」とも思った。一方で、論理的な思考プロセスを経ることでしか明確に認識できないものやもれなく考えることができたと感じた部分もあった。今回はその思考の道筋を残しておこうと思う。
映画「福田村事件」で描かれる正義と悪の行動は、
・正義=虐殺しないこと
・悪=虐殺すること だ。
では、悪とされる行動=虐殺を選んだ人はなぜその行動を選んだのか。
①「朝鮮人が日本人を攻撃している(という噂を信じた)から」
では、なぜそう思った(信じた)か。
・自分の身の危険を感じるから
・家族が被害にあったから(その恨み)‥例)行商人を殴った女性
・新聞も報道しているから
・政府が言っているから
・皆もそう信じているから
また、映画では明確には描かれていないが、②「朝鮮人が日本人を攻撃しているという噂を信じていないけど、朝鮮人を殺した人」もいるはず。
その場合に彼らがその行動をとると考えられる理由としては、
・政府がそう言っている以上は逆らえないから
・皆が言っているので自分だけ反対できないから
・元々朝鮮人への恨みがあるから
①のうち、
「自分の身の危険を感じる」と「家族が被害にあった」は強い恐怖(や怒り)という点で共通しており
「新聞も報道しているから」「政府がそう言っているから」「皆もそう信じているから」は、噂の信憑性を裏付けるもの、である。
②は、「政府がそう言っている以上逆らえない」は、反対した際に起こることへの恐怖や不安、「皆が言っているので自分だけ反対できないから」は同調圧力である。
まとめると、以下の条件があると人々は虐殺を選択するということになる。
①恐怖(や怒り)という生存に関わる強い感情を喚起させられること
②噂の信憑性が高まること
③同調圧力
ただし、①から③のうち、組み合わせや単独では「虐殺」までに至らないものもあることが予測される。また、③の同調圧力は、「皆が信じている」ことと「皆と同じ選択をしないことへの恐怖」からもたらされるので、分解するとそれぞれ②と①と同義であると言える。
すなわち、①と②が組み合わさると、人は「虐殺」を「正義」と思い込み、実行する。そして①と②の関係性や実行までのプロセスを視覚的に捉えると、②の信憑性のある情報を餌に①の恐怖が大きく膨らみ、ある程度のところまでいくと、恐怖が攻撃に転じる(爆発=虐殺する)ということなのだと思う。
次に、正義とされる行動=虐殺しないを選択した人はなぜその行動を選んだのかを考えた。
虐殺をしないことを選べた人は、
①香川の行商団(被差別部落出身者)
②千葉日日の女性記者(ジャーナリスト) だ。
①香川の行商団はなぜ虐殺しないことを選べたか
・差別的に見られる人の気持ちがわかる ‥例)朝鮮飴を購入した場面
・差別されるいわれがないことを知っている
・朝鮮人への恐怖心がない
②女性記者については、
・真実を伝えたい思い
・自分の目で見た事実があった ‥例)朝鮮人が目の前で殺された
まとめると、彼らが持っていたものは「朝鮮人への共感性」と「事実の価値を高く置くこと」である。
行商団の彼らが朝鮮人に対して理解があったのは、彼らが被差別部落出身者であることが多分に影響していると思う。共感はある種仲間意識ともいえ、やはり差別を受ける者という似たところがあったからこそ、「虐殺しない」立場を選択しやすかったところがあったのだと思う。
では、似たような体験がなければ共感はできないのかというと決してそうではないと思う。似た経験があると想像しやすいところはあるかもしれないが、似た体験がなくとも想像力を働かせ、相手の暮らしや人生を想像し、相手を自分と同じ人間として見ることはできるはずだ。違うもの同士でも、想像力を働かせて似たところを見つけられるかが鍵なのだと思う。
自分のことしか考えられない人間の性ともいうべき自己中心性を、他者理解のためにいかに使うのか。想像力を働かせ、自分の理解できる範囲を広げることが他者との共存には必要だ。
また、想像力を働かせるためにも事実に基づく情報を集める必要がある。想像できないことは自分の目で確かめることや、目の前の情報が事実であるかを見極める力が必要だ。共感できないものはより事実をおさえる必要がある。
結論:恐怖が大きくなる時こそ、元の情報が本当に正しいのか、事実は何なのかを確かめることが大切であり、もっともらしい情報の誤謬を見抜く力をつけることが必要だ。そして、事実に基づき想像力を働かせ、それをもとに自分の行動を選択していくことが大切だ。
次は、誤謬を見抜く力を身につけるためにはどうしたらいいかを考えたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?