批判されたときに考えていること。

飛行機に乗るのを怖がる人がいます。また最近では新型コロナウィルス感染に対する恐怖が社会の常識みたいになりつつあります。でも交通事故では二時間に一人亡くなるという事実に対してどうなんでしょうか?と思うことがあります。

そんなことを言おうものなら「でもテレビでは有名な人がこう言ってた」という判断をする人はやはり多いですね。

そんな最近の出来事で気をつけなくてはと思ったお話です。


ほとんどの方が尊敬しているある有名な方について、私も尊敬しているんですと話したところ、とても批判的に「私はそう思わない。彼はひどい人だ。」と言われる方がいました。

この方をAさんとします。

Aさんの話を聞いてみると、「あん人は尊敬されているが、実は○○を部下にさせたとんでもない人物だ。」とおっしゃいます。

なるほど、と思ったのですが念のため調べてみたところ、実際にはその有名な方は全く関わっていなくて、その方が亡くなった後に”可愛がられていた部下”が発案・実施した事案でした。

きっとそれを話しても、その人に対するAさんの見方が変わるとは限らないし、求められてもいないので、わざわざ勘違いですよと伝えはしませんが、まさかあれほど慎重なAさんがこんな思い込みをするなんて、と驚いたのを覚えています。

このように私たちは何かの拍子に勘違いをし、それを事実と思い込み、ことあるごとにそれが強化されていくことがあります。

だから世界的権威の方が発信している情報でも、もしかしたら勘違いしたまま発信している情報かもしれないと考えて、自分で確かめることが大事なのではないでしょうか。

例えば昨今の新型コロナウィルスに対する情報でも、私は対面の時だけマウスガードをしますし、誰もいない川辺をウォーキングするときや外出、まして雨の日などはマスクをする必要を感じないのですが、「ウィルスを撒き散らしている。迷惑だ」と批判する方がいます。中にはご丁寧に飛沫の状態をシミュレーションした資料が、権威のある方のサイトに載っていたと指摘する方もいます。

でも有名になったこの絵のように、シミュレーションの前提自体が間違っていたらどうなんでしょうか。

画像1

査読されていない論文、つまり単なる一主張なのにいつの間にか一人歩きして、ジョギングの時にはバフ必須とか、よくわからない方向に「社会の常識」が進んでいきました。

ちなみに実話を基にした映画「ハドソン川の奇跡」で興味深いシーンがあります。(未鑑賞の人にはネタバレになるのでご注意ください。)

乗員乗客全員の命を救ったヒーローなのか、本当は空港に引き返せるのにみんなの命を危険に晒した犯罪者なのかという議論の中、国家運輸安全委員会 (NTSB)はコンピューターシミュレーションでは無事に空港に戻れたという結果を元に主人公のサリー機長たちを糾弾します。

さらに人間が乗ったシミュレーターでも、サリー機長たちの言うように史上初のエンジン両側停止でも空港に戻れたと主張します。

では、機長たちは無謀な着水をしたのでしょうか。

厳しい目が注がれる中、彼は聞きます。「彼らは何回練習したのですか?」

しばらくの沈黙の後「17回」という回答が来ます。

離陸してすぐエンジンが止まって、自分では何も確認せず管制官の指示通りにただ空港に戻ることだけ目指せば確かに可能でも、エンジンが本当に止まったのか確認したり、再起動かけたり、といった必要な手順を踏んでから指示に従った場合について、つまり見落としていた条件をしっかり設定に入れてシミュレーションしたらどうなるのか。

ここで2組のテストパイロットが上記を考慮に入れた上で再度シュミレートしますが、どちらも墜落という結果になり、サリー機長たちの判断が確かにそのとき最も的確な判断だったという裁定が出て映画はラストシーンに向かいます。

このように大事なのは誰か有名な人が言っていたから、とか表面的に「検証した」情報ではこう言っているから、ではなくて自分でしっかり調べて自分で結論を出すこと、そしてそれに対してどんな対応をされても「これは自分で決めたのだから、自分が責任を取る」という気持ちを忘れないことだと思います。

そしてもちろん自分の見方やしていることも思い込みが元になっていないか常に検証すること。

これを忘れないようにしたいと思います。


参考サイト


この記事が参加している募集

習慣にしていること

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?