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嫌いという感情ほど自己理解と直結している

 相変わらずクソと思われる銀行サービスを待ちながら書簡を読んだ。AIとかじゃなくてもいいけど、構造的にリテールの窓口業務とか誰も得しない尊厳を損なわせるだけの仕事に思えたのだった。単に待合のあいだに子供あやしに忙しい中デビットカードの営業をされたというだけです。パーミッションなしに営業してくるとかハッキリ言って今は罪でしょう。それにしても長い待ち時間でした。緑の銀行。

さて、いい記事で返信したくなった。嫌いな人の話のところと今後の社会みたいなところとふたつ分けて書きたい。今回は特別編で2篇連続でお届けしようw

で、嫌いな人の話は、本当にそうなんだろうと思います。おそらく、星野源にいぬ氏が抱いている感情と俺が前野せんせいに抱いている感情は近いのではないでしょうかwということが一番書きたかった。私にとって幸福学のムーブメントはそれに近いものを感じているから。(それ=計算高さ)

ちなみに大学の先生のタレント化現象全般に俺は近い感情を抱く。つまり嫉妬でしょう。最近は結構なくなりました。アカデミック的なキャリアを捨象しようと思ったので。なりたくて慣れない、羨ましいという気持ちがそうさせるのでしょう。彼我の差は半端なく大きいにもかかわらずそういう嫉妬をしてしまうわけだ。それによって、自分の価値観がわかったりするのではないかなと思ったりした。

最近読んだツイッターでもそういうのがあって覚えていた。

星野源についても少しコメントしておくと計算高いのはあるのかもしれない。細野晴臣とお近づきなのもそうだし、LIFEのコントをやったのもそうだろうし、NHKよりなのもそうだろうし。好きなゲストと仲良くラジオしているのもそうだろう。だが、そうなるように下積みが長かったのも知ってるし、もともとブラックなサブカルな人だったことも知っているし、などなどの意味付与で俺は好きです。もうドームはフラッグがはためいてました(トップ画像はそのフラッグです)

計算高さは、高かれ低かれ誰しも少しは、ほんの少しはもっているだろうと思うのです。で、俺もそうなんだけど、最近思うのは、もうそれはそれで、ただ好きなことにフォーカスしていけたらいいよね、ということかな。お互い同じこと言ってるんだけどね。自分が不全感なければ、嫌いはなくならなくても、どうでもいいかなといつもより強く思えると思っている。で、そうありたいものです。

続きます。

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