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繁華街少年はサイバーパンクの夢を見るか

さて、返金騒動でゲーマー以外でも有名になってしまった『サイバーパンク2077』について、1回目のゲームが終了したのでここに書いておこうと思う。このゲーム、僕にとっては人生の一つのマイルストーンでもある。

そもそもサイバーパンクという概念、意匠、思想についてはここに記さないが、僕がサイバーパンクというものにある種の『郷愁』を感じてしまうのは、僕の生まれ育った街のせいでもある。大阪の京橋という土地は、大阪の中でも有数の繁華街の一つであり、その中でもどちらかというと薄汚れてジメジメとした、人間の陰の部分が掃き溜まっている類の繁華街だ。街を歩けばワンカップの瓶や煙草の吸殻は落ちているし、上を見上げればどぎついネオンサインが溢れている。夕暮れになると酔っぱらいとケバい化粧をした女性が闊歩する。読書、とりわけ未来の物語が大好きだった少年は、そういう街で育った。

だから僕はそういった少年少女SF全集の表紙にあるような、鳥の鳴く緑の広がる丘の上に、ピカピカと光る銀色のビルが青空に向かって伸び、清潔でシンプルな移動チューブがそれを取り巻いている、そういう未来に違和感を感じていた。

サイバーパンクのビッグバンは1982年で、この年にはブラードランナーが公開され、AKIRAの連載が始まっている。ビッグバンはその瞬間から全ての創作物にある種破壊的な影響をもたらしたが、その余波を小学生低学年だった少年も実はモロにくらったんである。

未来刑事ウラシマン(1983)
https://www.youtube.com/watch?v=rtNn1qjVLn8

ダーティーペア(1985)
https://www.youtube.com/watch?v=POBiNhp_hk8

少年はネオンが無秩序に入り乱れ、ゴミとあらゆる人種が溢れるネオトーキョーに、自分が住む街の延長線を見たのだと思う。繁栄と荒廃が表裏一体の都市、人間の欲望が膨らむだけ膨らんでグズグズと行き場無く飽和した都市が、繁華街少年にとっては妙に「しっくりきた」と言うしかない。

そうやって少年の中には、藤子不二雄的SF(少し不思議物語)とは別のベクトルとして「AKIRA的SF」が深く根付いてしまった。中学生でブレードランナーに出会い、そのままフィリップ.K.ディックやウィリアム・ギブスンに至り、それら前駆的サイバーパンクの薫陶を受けたライトノベルの海に泳ぎ、攻殻機動隊やアップルシードという楽園にたどり着くまでにそんなに時間もかからなかったのである。

大学生の頃にはすでに「ポスト・サイバーパンク」の時代と言われ、PlayStationでは「クーロンズ・ゲート」がよりアジアンでマッドな世界を作り出していたが、僕の中でのサイバーパンクはやはりもっと直情的で暴力的な、生命への渇望が歪みきった形でどうしようも無くなってしまった、ある種の「西部劇的世界」を求めていた部分がある。

今回の「サイバーパンク2077」は、そのメインシナリオ、また多くのサブシナリオについて、そういったサイバーパンクが内包してきた病理的社会、「身体の機械化による暴力の許容」「記憶の改編による自己の崩壊」「コングロマリットによるあらゆる個人情報の支配」という王道を踏みしめており、人間の「欲」と「暴力」と「悲哀」そして滑稽さが重厚に表現されている。ゲーム性やグラフィックに関しては今回、残念なことになってしまったが(僕自身もCS版を諦めてPC版を買い直したくちだが)、1970年代から連綿と続くサイバーパンクの系譜に深い影響を刻みこむ作品であることは間違いない。

2020年にこのゲームをプレイできたことを、幸せに思う。同時にまだまだこれから、面白い作品が生まれてくると思うとなかなか簡単に死ぬわけにもいかないなと思う。



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