元祖 ネカフェ難民だった話

「ネットカフェ難民」
懐かしい言葉ですね。笑

私は、わりかし 人と違う人生を送っているとは思うのですが、
その中でも、大学1年のときの夏休みに
私が、ネカフェとレオパレスで過ごした話です。
2週間くらい、2つの場所で過ごしたと思います。

2006年の夏なので、
「ネットカフェ難民」という言葉が出てくる直前ですかね。
こういう先駆けは望んでないのだけど(^^;)、
結果的にネタになったから、良しとしよう(笑)


私がネカフェ難民になった理由と経緯

さて、どういう経緯で私がネカフェ難民になったかというと
簡単に言えば、
「寮の閉鎖期間に追い出され、
その間、別の大学の研究室に通わなければならなかったから」

という理由です。

まず、寮の閉鎖期間についてですが、
私が通っていたのは関西にある某女子大でして
大学が持っている寮で4年間を過ごしたわけですが、
きっちりと管理されている分
やはり お盆や年末年始は完全閉鎖されるんですね。
だから、大抵の人は友人宅に泊まるか、帰省していたわけです。

では、なぜ私は帰省せずに
関西に居なければならなかったのかというと、
別の大学(国公立大)の某研究室に通っていたからです。
武者修行ってやつかな。
本当は、その研究室のある大学に入りたかったのですが、落ちてしまい。
でも、受験前に、入りたかった研究室の先生と
コンタクトを取らせてもらっていて、門戸をたたいた感じです。
第二志望の大学に入りながら、
第一志望の大学の研究室に、片道1時間以上かけて通っていました。

通常、大学の授業が終わると研究室に向かっていましたが、
夏休み期間は寮から通うことになります。
しかも、夏休み中、寮に残るのであれば
トイレ掃除やら受付当番などの係が振られるので、
できるだけ寮には残らないようにしなければならない。
しかも、仕送り月5万の中で。

調べると、当時のレオパレスで1週間借りれば
たしか、27,000円くらいだったと思います。(38,000円かな?)
で、交通費もかかるし、
残りの1週間はネカフェでなんとか過ごせるだろうと思っていました。
そんな軽い気持ちではなかったと思うのですが、
それしか方法が浮かばなかったのです。


家が無いことの辛さ

そうやってネカフェ難民になっていったのですが、
私の場合は期限付きでしたから
世間でいわれる言葉の意味とは若干ズレがあります。
それでも、あの辛さを体験できたのは良い勉強になりました。
ホームレスの辛さも少し分かりましたよ。

何が辛いって、私に限ったものもありますが、
「大きな荷物を持ちながらの移動」と
「睡眠時間と食事コストを抑えること」
それに合わせて
「睡眠の質の悪さ」と
体力消耗の激しい京都・奈良の夏の中で
「好きなときにお風呂に入れないこと」ですかね。

ネカフェでは、たしか、ナイトパックを選んでいたので
睡眠時間が限られるし(たしか6時間くらいしかいられないかな?)、
シャワーもその時間でしか浴びれません。
「今日はどこのネカフェにしよう」とかいう日もありました。
お盆なのに、たまに混んでたりするんですよ。
正直、ネットカフェでシャワー浴びるとか、
盗撮されてることもあるだろうし、嫌なんです。
(まぁ、そんな見せるほどの体ではないですが。。。)

それに、室内に限られた時間した居られないとなると、
入店までの時間をどう潰そうか、迷うのです。
当時の私は、飲食代を削ることにも必死でしたから、
気軽に「マックに入ろう」「ファミレスでゆっくりしよう」
とか、あまり進んで思えませんでした。
(マックがそんな好きではないのもありますが...)
だから、街中をフラフラするのですが、
それも無駄な体力消耗になるので、したくなくなるんです。
これって、まさにホームレスの気持ちやんけ!ってなります


その日暮らし

ネカフェでは飲み物が自由なのは良かったのですが
毎日の食事のコストも抑えていたので
頭がフラフラしながらも、研究室に通っていたのを覚えています。
夏休み中に観光を楽しむ華やかな女子大生生活とは無縁でしたね。

今、冷静に考えてみると、アホだなと思います。
研究室で勉強するために、ここまで苦労して生活してるのに、
研究室に着いたら、勉強らしい勉強は出来てなかった
からです。
その日を暮らすことでいっぱいいっぱいでした。
本末転倒ですね。完全に、本来の目的を見失っています。
でも、それが
当時の私の最大限の知恵と努力の結果だったのだと思います。

ネカフェに比べたら、レオパレスの生活はもちろん快適でしたよ。
1Kですが、布団・お風呂・洗濯機・冷蔵庫・冷房・テレビがあり、
キッチン用品もあったので自炊可能でした。
これだけで人間、ある程度十分な暮らしは出来るのだな、と。


不思議なできごと

そんな感じで頑張ってやってきてはいましたが、
厳しい研究室でのストレスもあり、
後半はもう本当に辛くなってきて、、、
レオパレスにいるとき、ある晩、泣いていたんです。
そうしたら、翌朝、母からメールが来て。
「悪い夢みたから、心配でメールしてます。大丈夫ですか?」って。
これ、本当にびっくりしました!!
「ご先祖様が伝えてくれたんじゃないか」って
本気で思いましたし、感謝の意を込めて
そこからお墓参りは自主的に行くようにもなりました。


親に頼るべきときもある

お金に関して、意地になっていた部分もあります。
月に5万円を捻出してくれていることを考えれば
そんな贅沢なんてできないと思っていました。
でも、あの夏休みだけでも、親に頼れば良かったかなぁと
今では思うのです。
我が家だって、東京でマンション買っちゃうくらいだし、
貧しい家庭でもないはずなので。
でも、母が自分のやりたいことを抑えて
非常勤の公務員として、保育園で働きだしたのも知ってて
いろいろと申し訳なくて、頼れなかったですね。


研究室を辞めて、違う目標へ

夏休みは帰省もせずに、なんとか関西で過ごした
というか、なんとか生きて寮へ帰ってこれたわけですが、
そのあとの研究室での孤独感に耐え切れず、
11月に研究室を辞めました。
そのあとは、スッキリした気持ちで寮生活も送ることができていましたし、
別の目標を作り、結果的にそれを卒業まで続けることができたので、
良い経験になったのかもしれません。

「良い経験」と言えるのは、
失敗しても、同じ失敗はしないようにと意識して動けば
もっと良いものを手に入れることができる
から。

また、普通ならしないようなことを経験していたのも
今の自分の財産になっています。
また、最近、無職になってから
「身分証」ということの重要性についても考えています。
これについては、別の記事で。

もし、私みたいな人間が政治家にでもなったら、
弱者に寄り添う気持ちは一番あると思いますよ。(笑)
なんてね。
でも、そういう「人の気持ちが分かること」って
結局は、体験を通じてでしか
本当の理解はできないんじゃないかな?
だから、「教育」って難しいし、大事なんですよね。

きっと、みなさんにも
振り返れば勉強になる過去があるのではないでしょうか。
まぁ、思考材料は日常にいっぱいあるんですけどね。

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