クジラになれなかった記憶の海のメダカたち
先週末は本当に朦朧としていて、普段考えないようなことをたくさん考えました。正確に言うと考える余裕なんてなかったのだけれども、頭をめぐっては消える記憶の断片たちを、万華鏡の中のガラスのように眺めていた気がします。
色々とあって遅くなった三回目接種。今回はそんなにヒドいことにはならないだろうと思ったら、二回目同様のクリティカルヒット。熱も40°C近く出て、風邪をひいた小学生の時のように天井のシミを見ていました。
ただ、シミがちゃんと見えないことはショックだったな。流石に小学生のようにとはいかなかったことが、流れた時間の長さを深々と感じさせてきました。
そんな状態だったので意識はあちこちに飛んで、昔に読んだ本のことを朧気に思い返していました。好きで何度も読み直した本。大筋では思い出せるのですが、細かい道筋や描写はやはり記憶の彼方です。
彼方。そう、この思い出せなくなった記憶たちはどこに行くのだろう。
なんて考えていると、多くの卵を産んでその中から数匹だけが大きく育つ魚の群れが頭に浮かんできました。海に煌めく魚の群れ。実際に見たのは水族館だけれども。
もしかたら、思い出せなくなってしまった記憶たちは、今の自分をつくるために犠牲になった数々の卵たちのように、記憶の海のどこかに散っていったのではないかな、なんて思うのです。
生物は種を残す方法として、多産他死か少産少死を選ばざるを得ませんでした。前者なら多くの命が一つの命を支え、後者なら多くの努力が一つの命を支えます。
今の自分を作るために、多くの思い出が記憶の海の藻屑になっていったと思うと、少しセンチメンタルな気持ちになってしまいませんか。
🐾
ところで生物を思い返すと、多産多死の種よりも少産少死の種の方が体が強く大きく育ちます。数が少ないので強く大きくならざるを得なかったのです。
そして先ほど記憶は多産多死と言いましたが、アイディアは少産少死でないといけないのではないかな、なんて思っています。
一見、数打ちゃ当たるの方が効率が良さそうに見えるのですが、労力を注がれることなく放り投げられっぱなしのアイディアたちは、結局大きく育たないまま終わってしまうことが多いと思うのです。
GoogleのYouTubeや、Facebookなどが良い例です。マネタイズはとりあえず置いておいて、スケールさせることだけを考えようぜと育てられたサービス。彼らが今の世の中を牛耳っていることからも、アイディアは少産少死、手をかけてあげないと大きく育ってくれないと物語っているように感じます。
これは別に起業なんてしなくても大切なコンセプトではないでしょうか。何を選び何をすることに時間を費やすか=「生きがい」は、自分が何者なのかというアイデンティティそのものだからです。
この「生きがい」の概念は海外にも広まり5年ぐらい前に本でも紹介されています。
下の図は"Ikigai"コンセプトとして紹介されているものです。とても分かりやすいマトリクスで、海外の人たちは漠然とした概念をフレームワークに落とし込むのが本当に上手ですね(日本語はあまり見つからなかったけどこちら)。
大きく育てるために少産少死で取り組むべき"Ikigai探し"では、自分の考えに情熱を注ぎ込む必要があります。逆に言えば、自分が本気でパッションを注ぎこめることにだけ付き合う価値があるのです。
誰かが言ったからやる、これが良いと言われたからやる、そんな人生の攻略本に従うのではなくて、自分がやりたいと思うこと、心から熱意を持てるもの、そんなものにこそ時間を費やすべきなのです。
せっかくの人生。メダカではなくてクジラを育ててみませんか。
それが海の中へと散っていった数多の記憶への追悼になる気がしています。
ではでは。
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