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ディズニーが「とにかく好き」な家族から、ブランドとは何かを教えてもらった

我が家はディズニーリゾートの大ファンです。ディズニーランドとディズニーシーが大好きなのです。

毎年1回はディズニーホテルかミラコスタに泊まる入れ込みよう。さすがにこの2年間はなかなか行けなかったのですが、今年は年初の少し落ち着いた時期に、今だとばかりに行ってきました。

我が家と言いましたが、実は私はニュートラル。ですので余計に、なぜここまで我が家がディズニーリゾートが大好きなのかが、気になってしょうがなかったりもします。

そこである日、意を決して家族に聞いてみたのです。「なんで皆はそんなにディズニーランドやディズニーシーが好きなのか?」と。

すると「何を言っているんだコイツは」という顔をして聞き返されてしまいました。「え、楽しくないの?」と。

ダメだ。全く噛み合わない。

それ以来、「どうしてディズニーリゾートが、ココまで我が家の心をとらえているのか」は私が自身でちゃんと向き合うべき問いだと感じ、ディズニーに行く度に色々と考えるようになっていきました。

長い年月を積み重ね、確実に我が家はディズニーリゾートのファンになっていきました。

ある年はステージの出来に舌を巻き、ある年はキャストの方々の優しさに感動し、ある年は数十年経つアトラクションが全く色褪せずにメンテされている事実に気づき心震えたものです。

その中でもとりわけ印象深いエピソードがあります。買ったばかりの人形のお洋服が無くなってしまったお話です。

ディズニーシーには「ジェラトーニ」という猫のキャラクターがいます。このジェラトーニ、お人形自身が可愛いだけでなく、別売りのコスチュームもこれまた素晴らしい出来なのです。

当時、ディズニーシーに訪れた時のコスチュームはマーチングバンドのトランペッターでした。モスグリーンを基調とした衣装は、外国の王室のマーチバンドが着ているかのような洗練度。

トランペッターというわけで、もちろんこのコスチュームにはトランペットがついていました。そしてこのトランペットを、案の定と言いますか、子どもが落として無くしてしまったのです。

気づいた時には時遅し。落し物センターに行くものの残念ながら届いていません。当然のように落胆する子どもと慌てる親たちがそこにはいました。

あまりに落ち込む子ども見かねて、トランペットだけでも買わせてもらえないかとお店に相談に行ったのです。すると、なんということでしょう。「商品の交換」として対応して下さったのです。

お洋服一式をお返しして、新しいコスチュームに「交換」して頂きました。その中にはもちろんトランペットも入っています。

あの時の家族の笑顔は忘れません。空に飛んでいってしまった風船を眺めるような寂しい顔つきから、突然の花束をもらったかのような、心からの笑顔がそこにはありました。

その年はいつもの年の数倍も、楽しく時間を過ごしたものです。

そしてこれだけでは話は終わりません。家に帰って2週間程経った時にディズニーシーから郵便が届いたのです。

なんだろうと思って開けてみると、なんとトランペットです。しかも「本当に落としてしまったトランペット」なのです。少し傷がついてしまっていたのですぐに分かりました。

つまりディズニーは、もう帰ってしまったお客の落し物ですら、探し、見つけ、わざわざ届けてくれたのです。

これを見て、子どもは二週間ぐらいは「ディズニーすごい!」としか言いませんでしたし、親はその想像を絶する対応に「ここまでしてくれるのか」と涙した、というお話です。

それ以来、家族のディズニー好きは加速していき「推しを好くに理由がいるか」といった反応が返ってくるのは半ば当然のことでもありました。

つまり、好きなことにもはや特定の理由がない状態なのです。

もちろんひとつひとつの理由を挙げようと思えば、対応が良かった、ワクワクする、景色が綺麗、キャラが好き。いくらでも挙げられます。

ですが、もはやそんなひとつひとつの理由などどうでも良いぐらいに、ディズニーリゾートそのものが好きなのです。

そう。「ディズニーランド」「ディズニーシー」と聞くだけで、楽しかった数々の想い出が蘇り、うっとりと次回の体験を夢見る状態なのです。

この状態を理解するのに背中を押してくれたのは仕事の経験でした。これはまさに「ブランド」が与える感情面の価値である「情緒的価値」そのものなのです。

つまり、私は長年に渡って、それまで特別な価値を持っていなかった「ただの記号」が「ブランド」に昇華されていく過程を見ていたのです。

何かが好きな理由を挙げられるということは、まだ対象の「機能」が好きな状態です。色が好みだ、形が可愛い、お値段相応だ。その全てが「説明できる」状態です。

一方で、感情面での価値を感じ始めると、具体的な機能ではなく「上手くは説明出来ないけれども好き」な状態に近づいていきます。

そして、この「説明できないけれども好き」な状態には「良い想い」を繰り返し経験することでしか到達できません。

長年に渡りディズニーリゾートが提供してくれた、圧倒的なまでのホスピタリティは、まさにこの「良い想いをする」手伝いであり「良い想い出づくり」だったのです。

このことから、ブランドとは「心地よい想い出の集まり」なのだと分かりました。

これに気付いた時に、イメージ先行でコスパが悪いものと思っていたブランドを圧倒的に身近に感じたものでした。だって、日々の「良い想い出」の積み重ねがブランドなのですから、それは日常のあちこちに潜んでいるのです。

また、毎日の仕事や発信で、自分をブランディングすることの大切さと方法を理解しました。圧倒的な結果で期待値を超え、心地良い想い出を作り続ければ、それは相手の心に自分というブランドを創ることになるのです。

こう考えると、ブランディングとは、価値を伝えることであるマーケティングと言うよりも、価値創りであるモノづくりそのものなのだと感じています。

なんて、理由を考えている時点で、まだ私はディズニーのブランドに染まりきっていないのかもしれませんね。

もし私が「ディズニーやっぱり最高」なんてnoteを書いているのを見つけたら、「あぁ、この人も心地良い想い出に染まったのだな」と、温かく見守ってくださいませ。

次はいつ行けるかな。

…ん?


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