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パートナーの故郷が心に馴染むようになるまでの話

はじめに

大学を卒業した2017年の春。ひょんなことから、私は縁もゆかりもなかった長野県という土地で就職することになりました。新しい生活は情けないほど散々なもので、この地を愛せない気持ちがめきめきと育ってしまいました。大嫌いな職場。大嫌いな土地。いつも孤独でした。
そんな私はなんと、6年経った今でも長野県で暮らしています。記憶から消してしまいたいほど辛い時間を過ごした場所でしたが、今はそれなりの住み心地の良さを享受し、この土地で他愛もない生活を過ごすことにかけがえのないものを感じて生きています。

それはどうしてか。結論から言うと、時間が解決してくれました。ひよっこが経験を重ねて心に余裕が出てきたというどこにでもある話なのかもしれない。
だけど私はこの地獄から抜け出すための方法を、生きることを諦める以外の方法を見つけるのに6年ほど時間を要しました。22歳から28歳までというそれなりに長い時間。ずっとやるせない気持ちを抱えていたけど、やっとこの生活に愛しさと楽しさを見出せるまでになりました。

これから書き連ねるものは私が異郷の地で居心地の良さを見つけるまでのエッセイです。とても泥臭い内容になっているので心底恥ずかしい。それでもどこかで同じような境遇で悩みを抱えている人に何か寄り添えるものを届けられたらという気持ちで赤裸々に綴っていこうと思います。

地獄のはじまり

2017年~2020年。どんなことを地獄だと感じ、悩んでいたかについて綴っていきます。小さな劣等感が積み重なり、自尊心が底を尽きる。まだ始まってもない明日がすでに地獄で染め上げられている。そんな心境はきっと誰にでも起こりうるはず。

長野県で就職した理由はただひとつ

そもそも私はどうして縁もゆかりもなかった長野県に就職することになったのか、その経緯についてお話します。
私は就職する前、山梨県にある大学に通っていました。そこで出会ったふたつ年上の恋人が長野県出身だったのです。ふたつ年上の彼は卒業とともに地元である長野県に就職。長野県と山梨県という中距離恋愛がスタートしました。
それから2年後、私が就職活動をするタイミングでも彼との交際は続いていました。お互いの将来像や気持ちを再確認し私も長野県で生きていくことを決めました。そして、彼の住む長野県北部の企業で運よく内定をいくつか獲得。あともう少しでまた彼と毎日会える生活が帰ってくる…そう思っていた矢先に不運な出来事が訪れます。
なんと私が本命の企業に内定をもらったタイミングで、彼の転勤が決まったのです。転勤と言っても同じ県内ではありましたが、北部から中部に異動になったため高速道路を使っても1時間半ほどの距離に離れて住むことになってしまったのです。転勤は2年間限定とのことで、あと少しで中距離恋愛が終わる…というタイミングでまさかの延期が確定しました。
私はしばらく落ち込みましたが、居住地の変更を伴う規模の転勤は今回が最初で最後らしいという話を彼から聞き、腹を括ることにしました。私はこんな自分に内定をくれた企業でなんとか頑張って、彼が戻ってくるタイミングで一緒に暮らせるように踏ん張ろう。そう心に誓ったのです。
今思うと随分と脳内がお花畑で、彼に依存しっぱなしの状態で長野県にやって来たものです。とはいえ世の中にはパートナーの地元で楽しく暮らしている女性はたくさんいるわけですし、大学生活で地元以外の人との交流にもずいぶん慣れてきていたので、今回もどうにかなるだろうと思っていました。
そして、山梨県から三重県までの距離と、長野県から三重県の距離がほとんど変わらなかったため、地元から遠ざかってしまうという感覚はありませんでした。

はじめての同期…なのにもう入る隙がない!

新卒で入社したのはとある中小企業のメーカーでした。働き方についてそこまで解像度が高くなかった私。人生でやりたかったことは大学で終わってしまったと思っていたので、就職先に求める条件は「転勤なし」であることを最優先に決めました。
その時の同期は全員で10人。私と同じように大卒が6人、中途採用が2人、専門卒が2人という構成でした。私以外の全員が長野県出身。更にはほとんどが実家暮らしで、その事実は衝撃的でした。
私の社会人生活は新しいことづくしでした。馴染みのない土地で一人暮らしがはじまり、身寄りもいないので関係性づくりも真っ新な状態ではじまりました。そして、正社員として働くことも、自分の稼いだお金だけで生計を立てるという経験もはじめてでした。
その一方で同期たちは住み慣れた町で、新しい職場で働くという課題だけが立ちはだかったように思ってしまったのです。(実際はそうではないと思いますが)
同期たちは会社で嫌なことがあったり悩みを抱えたりしても、気軽に思いを打ち明けられる友達や家族がすでにいる状態でスタートしています。だから、さいあく新しい職場で仲良い人ができなくても、すでに精神的安全性のあるコミュニティが別の場所に存在します。だから同期である私と仲良くなれなくても何も問題ありません。
その差が本当に寂しく思いました。私だけが必死すぎて、同期のみんなは肩の力を抜いて余裕のあるスタートを切っている、そんな風に思ったのです。思い込んでしまったのです。実際、学生時代の私は同級生や後輩から相談を受けることが多かったのですが、社会人になってからは人に頼られることがぱったりと無くなりました。その事実に気づいてからというもの、私はどんどん自分の存在意義さえ失っていくような感覚に陥りました。

注記:同期たちにそんな思いはきっと一切なくて、右も左も分からない私にいつも声をかけてくれ、食事や遊びにたくさん誘ってもらいました。当時の会社は辞めてしまいましたが、今でも交流が続いており本当にありがたい存在です。

仕事が出来ず、職場の人と仲良くする資格を失う

大学時代にバイトをしていた頃から薄々気づいていましたが、私は働くことが不得意な人間でした。新しい環境に順応するまでにかかる時間は人よりも長いと思います。そして、順応するまでは仕事内容が頭の中に定着せずミスを連発します。起こりうるミスを全部やり切って、トラウマと仕事内容を同時に頭に焼き付けるという具合でした。
ひとり暮らしの家と職場を行き来する生活をしている私にとって、自分が仕事が出来ないというのは大問題でした。長野県には職場にしか知り合いがいません。なので職場での人間関係は唯一の命綱でした。そんな状況なのに、仕事が出来ない自分には職場の人と仲良くなる資格なんてない、そう思いました。結果、心を開くことがなかなか出来ずどんどん孤独になってしまったのです。当時たまの「いなくていい人」という曲を夜な夜な聴いては泣きながら眠るというのが日課でした。そうすることで必死に生きることにしがみついていたのです。

お金が無い、楽しみも無い、心が潰れそうな日々

長野県にやって来た当時、所持金10万円ほどで新生活をスタートさせました。中小企業だから仕方ないことですが、正社員でも薄給。貯金をするにも、手取りから生活費を引いたら手元に残るのは本当に微々たるものでした。なので娯楽で心を満たそうと思っても、とても手を出せませんでした。遠出したいと思っても私は車を持っていなかったので電車という交通手段しかありませんでした。しかしながら長野県は車社会なのもあって電車賃が他県に比べて高値。気軽に利用することができませんでした。徒歩圏内で娯楽を得られる場所はほとんどなく、これまで好きだった美術館や本屋、CDショップなどの文化を受けられる場所から足が遠のいていきました。
悲しいかな、職場にいるか家でじっとしているかだけの生活。孤独な日々なのに楽しみも失い、私はぎりぎりの給料を稼ぐために働き、ぎりぎりの生活費を一か月かけてやりくりするだけの生産性のない生活を送ることになったのです。
注記:当時はまだサブスクサービスが充実していなかったので、家で楽しめるコンテンツが少なかったように思います。負のループにいたので、楽しみを探す気力さえ残っていなかったのかもしれません。

そして小さなことですが、同期の中で車を持っていないのは私だけでした。そのため、仕事終わりに同期で食事会をしようという話になっても同期の誰かが私を車に乗せていかなくてはいけませんでした。同期はみな優しかったので快く乗せてくれたのですが、私はいつもそれが本当に申し訳なかったです。なので、ここで食事会をしよう、とかここに遊びに行こうといった発案を私からすることはありませんでした。できませんでした。発案者なのに私は誰かに車に乗せてもらわないとどこにも行けないという事実が自分にとって許せなかったのです。

まるで町に棲みついたおばけ

ここまで書いてみて分かったことは、いかに自分の思い込みが自分を孤独に追い込んでしまったかということです。無理に貯金なんてせず欲しいものを買えば良かったし、仕事が出来なくても生きていて全然良いし仲良くなりたい人に声をかけに行けば良かったのです。しかしながら、人は孤独になるとどんどん思考回路が同じ道を辿るだけになるもの。ガラスコップの中に飲み干してしまった水の幻影を求めては、ただ眺めて喉が渇いたと嘆いているような生活だったなと思います。
仕事終わり、ひとり暮らしのアパートに向かいながらいつも同じことを考えました。私はこの土地で働いているし、住民税だって払っているのにずっとよそ者であるような気持ちでしかこの道を歩けないのはどうしてなのだろう?結婚をしていない、子どももいない、この土地に知り合いがほぼいない。それでもこの町に住んでいてもいいはずなのに。この町に住んでいることを受け入れてもらえてないような、地に足のついていないような感覚はなんなんだろう?私は生きていても死んでいても同じ。おばけと同じ。そう思いました。体中の痛みをすべて背負ったような涙を、夏の蒸したアスファルトに、雪道に、たくさんこぼしながらただ歩きました。

そんな調子で新卒で入社した会社ではずっと居心地が悪いまま改善できず、3年ほどした頃に限界が来たため逃げるようにして辞めました。教員免許を所持しているのを良いことに、「教育方面に興味が出てきてしまって…」と嘘をついて辞めたのでみんな笑顔で送り出してくれたように思います。とても「この会社に馴染めなかったので辞めます」とは言えませんでした。
このあと空のガラスコップを眺めているだけだった日々に終止符が打たれます。新しい水を探しにいかなくてはいけない、自分を変えなくてはいけないそう考えさせられる機会が与えられたのです。それは以外にも楽しく明るいものではなく、全世界を恐怖に陥れた新型コロナウイルスの蔓延という負の出来事がきっかけでした。

コロナ禍で気づいた本当の思い

2020年~2022年。転勤を終えた彼と無事に落ち合って、結婚しました。心から大切な人と同じ屋根の下で暮らし、生活もそこそこ安定したかと思いきやそれでもまだおばけの感覚は消えず。運よくすぐに再就職することが出来、新しい業務内容を必死に頭に叩き込む一方で、コロナ禍で遊びにも実家にも行けない日々がはじまり孤独に拍車がかかりました。追い込まれたことで、限界まで心が研ぎ澄まされたようにも思います。

遠ざかる神保町、思い出の東京

コロナ禍がはじまるまでは、社会人になった後も大学時代の友達とたまに東京に集合して遊ぶことでリフレッシュしていました。長野駅から東京へは新幹線で行けるので、意外と身近な存在なのです。交通費はそれなりにかかるので頻繁に会えるわけではありませんが、大学時代の友達と一緒にいる間、私は学生時代の私に戻れるのでそれはとても大事な時間でした。
旧友に会うと、分かりやすく自分が元気になっているのを感じることが出来て面白かったです。職場では動かない頭も、慣れ親しんだ友達の前ではぐるぐると回転し、饒舌に話す自分が現れました。そのたびにそういえば自分はこんな人間だったなあと思ったものです。それほど、社会人になってからの自分と学生時代の自分が深刻に乖離しているというわけでもあるのですが。
文学部出身の私は、大学時代の友達と会うときは神保町で古本屋を巡ることが多かったです。神保町は大学にいた頃からよく訪れた場所であり、大好きな場所でした。
しかしコロナ禍になり東京に出かけることを憚られるようになってからは行くことが出来ませんでした。東京だけでなく県外に出ること自体が悪となる風潮が生まれてしまい、いよいよ実家にも帰れなくなってしまいました。社会人になってから地元に帰る回数が減ってしまっていた私にはこれが悲劇のはじまりで、長野県に閉じ込められてしまったような状態になりました。

同世代の同性とどうやって出会うの?

新しい職場では同年代の女性がほとんどいないという状況でした。その結果、"同年代の女性"という存在が異常に恋しくなりました。前の会社の同期には会いたくてもコロナ禍で食事に誘える雰囲気にはならず、ますます渇望することになったのです。また、地元の友人や大学時代の友人と話したいときはもっぱらビデオ通話が主流になりました。顔を見て話せるのはとても楽しいですが、食事や買い物のような体験を共有する以上の有意義さには至らず通話を終えたあとは寂しさのあまり泣いてしまうことが増えました。この時の私は心療内科に行ったら鬱病と診断されていたのではないかと思うほど、精神的に不安定で不眠症になりつつありました。長野県から出ることが出来ず、対面で心の内を話せるのは夫だけという状況が、いつまで続くのか分からずとても怖かったのです。

注記:新しい職場は年上の女性が多く、とても可愛がっていただきました。やさしさのシャワーを存分に浴びて自己否定の心はすっかり洗い流されたほど。この会社に就職できたことでだいぶ元気になっています。

この時期あたりで、私は気の合う同年代の同性と出会いたい、会話をしたいというこれまで見えてこなかった具体的な願いが見えてきます。
コロナ禍なので現実的に会える友達づくりはなかなか難しいと判断し、まずはネットで友達を作ろうとしました。手始めにTwitterでアカウントを作りました。長野県在住ということを敢えて明記し、日々の生活を投稿してみました。仕事のことや趣味のことを中心に呟いては見たものの、あまり反応してもらえませんでした。自分のどんな要素を発信すれば人に興味を持ってもらえるのか皆目見当がつかず上手く使いこなせなかったことも、ひとつの原因かなと思います。
自分の投稿に反応をもらいたいのに、自分から誰かにリプを送る勇気はない私。結局誰とも交流することなくすぐに辞めてしまいました。

ほかにも出会い系アプリで同世代の友達を探すという機能があることも知りましたが、怖くてこれには手も出しませんでした。
次に、社会人サークルを探してみました。しかしながらピンと来る活動が見つけられなかった上に、コロナ禍で活動を自粛しているところがほとんどでした。そうして2年ほど情報収集だけは継続しつつ、何もアクションは起こせないままコロナ禍が落ち着くのを待つ日々が続きました。

欲求の段階

少し話が逸れますが、この頃は新しい仕事に慣れることにも必死でした。ですが、先述の通り新しい職場では心を開ける人が多く、それだけでも私の心はだいぶ回復しました。そして、心が回復するのに比例して、仕事でミスすることがほとんどなくなり仕事への苦手意識が自然と消えていきました。それどころかこうやって仕事を進めてみたい、こういうこともしてみたいなどどんどん欲求が膨らみはじめたのです。
この時、高校生の時に倫理の授業で学んだマズローの欲求の階層を思い出しました。私の場合、以前の会社では「生理的欲求」と「安全欲求」までが限界で「社会的欲求」が満たされていなかったように思います。今回、新しい職場で「社会的欲求」と「承認欲求」までもが満たされたことにより、最終段階の「自己実現欲求」が高まったのではないかと。
人間とは欲深いものだとは思いますが、まずはここまで精神的安全性が満たされる職場に辿り着けたことに底知れぬ幸せを感じました。

仲良しだった人が生活圏にやって来た!

2022年頃、暗中模索だった日々に大きな転機が訪れます。大学時代に仲良かった後輩が結婚を機に私の居住地に近いところに引っ越してきたのです。彼女が長野県内で就職していたことは知っていて一度食事には行っていたのですが、引っ越しを機にかなり会いやすい距離感になったのです。
結婚祝いも兼ねて早速ふたりでランチに行くことになりました。長野駅で集合し、善光寺まで歩きました。その日が本当に楽しかったことを今でも覚えています。大学時代からの親しさがあるので、少し久し振りに会ってもすぐに打ち解けられてほっとしました。そして不思議なことに、これまでなんとも思っていなかった長野駅や善光寺という場所がとてもキラキラして見えたのです。ここにこんなお店があったんだ、行ってみたいな。ここの景観はとても情緒深くて好きだな。そんな好意的な感情が目まぐるしく渦巻いたのです。この時、いつものおばけのような浮遊感がはじめて消えていて、きちんと自分の足で長野県を歩いている、長野県の風景の中に自分もいると思えたのでした。
これは彼女という心地よい存在が私をリラックスさせてくれたことの賜物だとすぐに分かりました。そして、私が長野県に来てからずっと欲しかったもの、それはこうやって長野県で新しい経験を共有できる友達だったのだとはっきり分かりました。長野県で楽しい思い出を一緒に作り上げてくれる存在。パートナーとはまた違って、そんな同性の友達に出会いたかったんだ。
これまでは遠方に住む学生時代の友達と社会人になってからも会うことで満足していました。その居心地の良さに甘えていたけど、そうすることで長野県で新しい関係性を築いていくことから逃げてもいいと思ってしまったのかもしれない。
この日を機に私は、長野県で新しい人間関係を築くことに積極的になろうと決心しました。自分の生活を肯定できるようにしよう。楽しいと思えるための努力をきちんとしようと思いました。

新しい友達に出会うためにやったこと

2022年、後輩との再会を機にこの土地で新たな人間関係を築くことを決意しました。職場以外でも人と関係を築いてみよう。そう思い、一歩を踏み出しました。空っぽだったガラスのコップに、水だけでなくオレンジジュースやカフェオレを注げるようになりました。

移住者の集いに参加してみた

コロナ禍による自粛ムードが少しだけ落ち着いている頃、私はひとつ気になるイベントを見つけます。それは長野県に移住した女性で集い、交流するというもの。自分に合いそうな社会人サークルを探している時はこれと言うものを見つけられなかった私ですが、"移住"という共通点なら自分でも参加できる気がする…と思いました。移住者として今の暮らしに何か解決の糸口が見つけられるかもしれないし、女性だけなら参加しやすいとも思いました。
当日はとても緊張しながら参加。正直、自分の話せることの1割も話せずでしたが、それでも同世代の女性と仲良くなり連絡先を交換することが出来ました。それは自分にとって涙が出るほど嬉しい出来事でした。終始心臓がバクバクしていたので心身の消耗は激しかったですが、参加してよかったと心から思いました。
この団体が運営しているイベントにはそのあとも何度か参加し、イベントで意気投合した方とはランチに行く仲になりました。
そしてこのイベントに参加している人たちは長野県に対する愛が強い方ばかりで、私は改めて長野県の良さを教えてもらうことに機会にもなりました。恋人と一緒に暮らすことだけを目的にやって来た長野県でしたが、今は彼の故郷が長野県で良かったなあと心底思います。

読書会に参加してみた

移住者イベントで仲良くなった人に誘われて、本屋で開催される読書会に参加しました。(誘ってくれて本当にありがとう。)
読書会というイベントに参加すること自体はじめてでしたが、本が好きな私にはハードルを低く感じ、緊張しながらも楽しみな気持ちで参加しました。結果、これも行ってみて本当に良かったです。Twitterでの友達づくりが上手くいかなかったことから、自分の趣味で他人と楽しめるものはないと思っていましたが本が好きだというだけでなんだか仲良く話せてしまうものなのだと知れたのは大きい収穫でした。そして、年齢も性別も職種も関係なく課題本を通して自分の意見を言ったり相手の意見を聞くのはとても有意義でした。大学のゼミの時のような楽しさを思い出し、活力さえ漲ったのです。

その他

こうして新しくできた仲間や仲良しの後輩とランチをすることが多くなったため、ランチや気になるお店の情報収集する習慣が出来ました。そしてそういった情報はHPやTwitterよりもインスタグラムに溢れていることに気づいたのです。(数年前まではそうではなかったのかも?)
おかげで私は行きたい場所やお店がどんどん増え、長野県での暮らしをとても自然に楽しむようになっていきました。喫茶店や雑貨屋で魅力的なワークショップが行われていることも知れるようになりました。
そのひとつに近所の喫茶店で詩人による朗読会というイベントがあり、迷わず参加しました。まず近所にそんな素敵な喫茶店があることも知らなかったし、私が最も好きな文学ジャンルである詩のイベントをこんな近所で行われることになったという事実が幸せと呼ぶほかなく、とても良い経験をしました。
この頃には社会人になってからちまちまと続けていた貯金で念願の愛車を購入し、活動範囲も随分と広くなりました。それも長野県に好きな場所がどんどん増え、愛着を持てるようになった大きな要因のひとつとしてあるように思います。

さいごに

「どこにいても、いつもの私でいられますように」

長野県での生活が楽しめるようになった頃、切実にそう思うようになりました。そのためには新しい風を取り込む勇気と情報収集を続けることが大切なのだと今回の一件で深く学んだように思います。
一度失った元気を取り戻すまでにかなり時間はかかりましたが、実はこれまでの人生でも同じような躓きはあったように思います。ただ、今回は暗闇のトンネルから抜け出すのにかなり時間がかかり、苦労したことは印象深いです。でもこうしてひとつのエッセイとして書き切れたことを、今は誇りに思います。

異郷を愛せるようになった要素を紐解いていくと
①読書会や元々仲の良かった人を通して好きなものに再度触れられたことで自分を取り戻したこと。
②好きなお店や好きな人が増えてきたことで居心地が良くなってきたこと。
③職場でも家庭でもないサードプレイスで大切なものが出来たこと。
これらが大きいのかなと思います。そして、"好き"だという気持ちを意識的に自覚し言葉にするよう、心がけるようになりました。その方が自分の感情を見失わないから。

嬉しいことに今の職場では一緒に旅行に行くほど打ち解けられる仲間(同世代の女性)も出来ました。今では、自分が仕事ができない人間だと落ち込むことはほとんどないので、新卒当時のような負の感情が強い時は頭も回らず機能しないから仕事も出来なかったのかもしれないなと思ったりします。もちろん、仕事の経験量が増えて慣れてきたというのもあると思いますが。

これからの私はというと、現在妊娠中で出産を控えています。これまた人生のビッグイベントで人間関係も新しい風がまた何度も吹き抜けていくのだろうなと思います。自分の人間関係だけでなく、子ども同士の人間関係も…。人生がずっと楽しいということは無いと思うので、また試練はやって来るのだとは思いますがその時はその時。調子が悪い時も良い時も、自分の好きなものを慈しむ心を持った人でありたいと今は思います。そして同じような悩みで苦しんでいる人がいたら、その人によって解決策は違うのだろうけど、今回の経験から寄り添える何かを渡せる人であり続けられたいと思います。

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