小説1
季節は進んでいく。
「今年は梅雨がなかったみたいだな」
隣からそんな会話が聞こえてきた。
そんなことはないのだろう。そう思いながら、流唯も同じように感じていたことに気がついた。
午後1時を過ぎた頃、市川流唯(いちかわるい)はスタバにいた。CULLNIのトートバッグからMacBookを取り出したが、充電するのを忘れていたようだ。手に持ったフラペチーノを口に含むと、MacBookをそっとバッグに戻した。
「少し遅くなる」というLINEがあって、この店に入ったばかりだった。
待ち合わせの30分前には着いていたが、カフェに入ってからも結局落ち着かず、明治神宮前駅の地下通路を足早に歩く人々をガラス越しに眺めている。
気を取り直してスマホでYahoo!ニュースを開いてみると、国民的女優がミュージシャンと結婚したという記事が目に入ってきた。興味深くコメントまで丁寧に見ていくと、このニュースで悲しんでいる男達の姿が見てとれるようだった。
ふと、高校時代の友人もこの女優が好きだったことを思い出した。サッカー部の部室に貼ってあるポスターの、全国高校サッカー選手権大会の応援マネージャーをきっかけに好きになるような単純な男だったが、その熱はかなり高いようだった。
Twitterを開くと、タイムラインのトップには彼のツイートがあった。同じような内容ではあるが連投したのだろう。見事に彼のツイートで埋まっており、その光景は先程のヤフコメと大差がなかったので思わず笑ってしまった。
半分程度残ったフラペチーノが溶けかけた頃、LINEの通知が届いた。
『もう少し!』
という1文と共に、乗り換え案内のスクリーンショットが送られていた。画像を確認すると、電車の到着時刻は今から歩いてちょうど間に合いそうな時間だった。
『出口5で待ち合わせにしよう』
そう返事をして、すぐに店を出た。
外の気温は少し暑く感じたが、ジャケットは脱ぎたくなかった。
立花楓佳(たちばなふうか)は、地下鉄の出入り口から小走りで階段を駆け上がってきた。
「ごめんね遅くなって、結構待ったでしょ?」
そう言いながら、黒く長い髪をなびかせていた。
「いや、全然だよ」
適当に返事をしながら、流唯は体を反転させて歩き始めた。
楓佳が隣に来た。横に並ぶと彼女の小ささに毎回驚かされる。流唯も身長は決して高くはなく、平均身長に比べても少し低いくらいなのだが。彼女が横に並ぶと彼女の頭が肩のあたりに来る。黒く長い髪が太陽の光を反射している気がした。
「行ったことない場所だけど、行き方は調べておいたから大丈夫!」
この言葉はきっと彼女なりの気遣いなんだろう。
彼女は健康的でありながら非常に肌が白かった。
大きく丸い目に、跳ね上げたアイラインを引いている。リップの色も発色が良く、大人びた顔立ちだが、その身長の低さと明るい口調から不思議とそう感じさせない雰囲気を持っていた。
「その友達、結構有名みたいだね。」
流唯が言った。
今日は楓佳の友人のイラストレーターが個展を開くということで、一緒に見に行かないかと誘われたのだ。会場は原宿。
この日予定のなかった流唯が誘いを受けたのは2日前のことだったが、その夜に聞いたばかりの名前を調べてみるとTwitterフォロワーが3万人を超える有名イラストレーターだったので驚いたのだ。
「昔から絵が上手いなと思ってたんだけど、専門学校入ってからSNSで一気に有名になったみたい。漫画家になるのかな、なんて思ってたんだけど最近ではインディーズバンドのCDジャケットとかも描いてるみたいだよ。すごいよね!」
中学、高校と同じ学校に通っていたという友人のことを、楓佳はとても誇らしそうに話していた。
確かに、同い年でそんなに活躍している人に会うことは滅多になかった。
イラストは既にTwitterで見ている。今はどちらかと言えば、この「新塔みつ(しんとうみつ)」というイラストレーターがどんな人なのだろうか。楓佳とどんな会話をするのだろう、そんなことが気になった。
そんなやりとりをしながら歩いていくと、5分程で会場に着いた。
ガラス張りの会場で、中の様子は外からでもよく分かる。金曜日から日曜日まで3日間開催している日程だ。2日目である今日は、土曜日とはいえ客入りが少ないのかもしれない。
楓佳が扉を開けると、いつもよりさらに明るい声で誰かに駆け寄って行った。
眼鏡をかけた小柄な女性が、カウンターの中に座っていた。彼女がイラストレーターの新塔みつのようだ。
Twitter上でも顔写真を見つけることが出来なかったことから察するにあまり顔は見せたくないのかもしれない。大きな、白い不織布のマスクをしていた。
しかし彼女もきっと綺麗な顔立ちをしているんだろうと想像した。どこか儚げな雰囲気を持っている、浅野いにお作品のヒロインのようだ。
そしてチェック柄のエプロンをしているのもわざとなのだろう。ギャラリー内を見渡せば、彼女がみつであることは誰の目にも一目瞭然だった。
流唯がみつの方に目を向けていると、彼女もこちらに気がついたようだ。
みつはその瞬間、目を見開いた。とても驚いているようだった。
「あ、連れてくるの言ってなかった。同じ大学で、1年のときから仲良くしてる流唯くんだよ。」
楓佳に紹介され、慌てて流唯が話し始める。
「楓佳さんの友人で、青山学院大学2年の市川流唯です。学部が一緒で、授業もよく一緒になったりで。今日は誘ってもらって一緒に来ました。すみません、突然お邪魔してしまって…」
楓佳は流唯が来ることを説明していないようだった。きっと、先程のみつの驚きようは楓佳が男性を連れてくるとは思っていなかったからだろう。
流唯はそんな予想をしながらみつの返事を待った。
「…いえ、ありがとうございます」
目を伏せながら、みつはそう言った。
口数が少ない人なのだろうか。流唯は少し不安な気持ちになった。
ギャラリー内を見渡すと、カラフルな色彩かつポップなレイアウトで様々なイラストが並べられており、その全てに可愛い女の子が描かれていた。流唯は1人ギャラリー内を歩き始めた。
清純そうな見た目から、派手なメイクや、ミステリアスな雰囲気の女の子も描かれている。ポージングも様々で、本や銃を持っていたり、車やバイクといった乗り物が一緒に描かれているものもあった。
デフォルメされているため明確には分からないが、それぞれのイラストにモデルがいるのだろうと思った。人並みに世間の流行を知っているであろう流唯が、なんとなく見覚えがあるような人達だ。そうしたイラストを眺めていると、楓佳の声がギャラリー内に響き渡った。
「今度、私をモデルにしたイラストも描いてくれない?」
みつもカウンターから立ち上がっていた。
「最近は仕事の依頼や個展が続いてて忙しいんだけど、落ち着いたら是非描かせてほしい。お気に入りの写真とかあるかな?あったら送ってくれると嬉しい。」
「ほんと?嬉しい!絶対アイコンにするよ!そうだ、LINE交換しない?」
2人が楽しげにLINEの交換をしているのを横目に、流唯はギャラリー内を歩き進めていく。
そこにあったのは、みつの代表作であろうか。
特別大きなイラストがあり、その横には彼女のプロフィールが飾られていた。
[新塔みつ 素敵な女の子しか描きません]
書かれていたのはたった一行の自己紹介だった。そして、それを見た流唯は破顔した。
あわよくば自分も便乗してイラストを描いてもらえるのではないかという淡い期待が、虚しくも散ったからだった。目を伏せながら、自分の居場所を探るように少しづつ楓佳達の元に近づいて行くと、みつは2人分の名刺を取り出していた。
手の込んだ名刺だと思った。両面に文字が印刷されたそれは、六角形の形をしている。
「夕方頃からもう少し人が増えてくると思うので、この時間に来てもらえてちょうど良かったです。是非ゆっくり見ていってください。」
お決まりのフレーズのようにも聞こえたが、その言葉を受けた流唯と楓佳は10分程滞在してから外に出た。
「この後どうする?時間ある?」
楓佳がインスタのストーリーを更新しながら聞いてきた。まだ合流してから30分しか経っていない。このままでは待っていた時間の方が長そうだ。しかしこのタイミングで聞いてきたということは、相手としても答えを想像しているのだろう。
「うん。大丈夫だよ。」
「オーケー!じゃあこの先のスタバでー」
大体予想できていた。こういうことはよくあるのだ。流唯は1人でスタバに入ることもよくある。だがこうして付き合いで1日に2回以上行くことになった時は、チャイティーラテを頼むと決めていた。流唯のマイルールだ。しかしこれだけ短時間のうちにとなると、先程の行動は少し失敗だったかもしれないと後悔した。
2人でテーブル席に座る。
楓佳は期間限定のフラペチーノを飲んでいる。
そこから、なんてことない学校の話や、途中で楓佳にお願いされた写真撮影の時間を挟みながら、近況報告という感じに会話は進んでいった。
「そういえばあれどうなったの?」
タイミングを見計らったように楓佳が聞いてきた。
「あれ?」
自分でも思い当たる節があったが、一度聞き返す。
「なんだっけ?なりすまし?困ってるって言ってたじゃん」
少しニヤニヤとした笑みを浮かべながら楓佳が聞いてきた。やはりそのことか。そう。僕の周りでは最近妙なことが起きていた。
ある日、僕のインスタのダイレクトメッセージにこんな文章が届いていたのだ。
『あなたの悪い噂を聞きました。もう関わりたくないのでインスタもブロックします。』
全く思い当たる節のないそのメッセージと共に、一枚のスクリーンショットが送られていた。
それを開いてみると、Twitterのトップページのスクリーンショットだった。「Rui Ichikawa」と表記されたアカウント名で、それは確かに自分の名前であったし、アイコンの画像も自分の写真だ。
しかし不思議なのは、これは自分ではない。ということだ。
そもそも流唯は、本名でアカウントを作るだとか、そういったネットリテラシーの欠けたことはしない。そう自負していた。
実際、流唯が使用しているアカウントは「FAB FOX」というハンドルネームで、それはフジファブリックというバンドの2ndアルバムのタイトルから来ているし、アイコンはNUMBER GIRLの5thシングル「鉄風 鋭くなって」のCDジャケットの画像を使っていた。
高校時代から使っているそのアカウントは高校の友人、大学の友人、現在のバイト先で知り合った人、さらにネットで知り合った音楽好きと繋がっていた。
フォロワー数は400人程度。流唯はその数が多いとも少ないとも思っていなかったが、ほとんどが相互フォローしている関係のため、これ以上フォロー数を減らせないということを多少悩みに感じていた。
もちろんこのアカウントで自分の写真や学校名といったプライバシーに関する発信は一切していないし、それは特に気をつけていることだった。
Twitterを始めたきっかけこそ周りがみんなやっていたからという理由だが、今では完全に趣味のために活用している。音楽が趣味の流唯にとって、140文字でCDの感想を書き留めておくためのスペースになっていたのだった。
昨日もくるりの「ワンダーフォーゲル」についてツイートしたのだが、140文字に収まらずとても苦労した。何度も何度も添削し、なんとか文字数ぴったりで投稿したそのツイートには現在2件のいいねしかついていない。
「でもその使われてた写真って、サークルのLINEグループのアルバムに入ってたやつなんでしょ?てことはさ、そのグループの誰かが犯人ってことじゃない?」
さらに続けて、楓佳が言った。
「なんかすごい面倒な人に目をつけられたっていうか、相当嫌われるようなことしちゃったんじゃないの…?絶対嫌がらせだもん、さいなんだねー。」
流唯は返事に困ったが、気持ちを落ち着かせながら答えた。
「まあ、まだそうと決まったわけじゃないけどさ。人間不信になるなあ…」
楓佳の言う通りだった。流唯は、ある程度犯人が分かった上で彼女に相談していたのだ。
偽アカウント「Rui Ichikawa」で使われている写真は全て、流唯が所属している青学内のテニスサークル「freedom (フリーダム)」のLINEグループ内で共有されていたものだ。
「freedom」は所属人数50人を超えるそこそこ大きなサークルで、入学当初特に希望するサークルがなかった流唯は、入学式で知り合った友人の翔と一緒に勧誘を受けたこのサークルに入ることにした。今では軽音サークルにでも入っておけば良かったと少し後悔していたりもするのだが、翔とは今でも1番仲の良い友人として関係が続いている。
つい2ヶ月前のことだ。温泉旅行が企画され、男子6人、女子5人の11人で箱根に行った。
それは流唯達が2年生になってすぐのことだった。
同学年同士の親交を深めるため、という名目でサークル内の2年生に片っ端から声がかけられ、最初は18人いたLINEグループも、次第に「バイト」や「金欠」を理由に断るメンバーが抜けていき、いざ決行する時には11人だけのグループになっていた。
ここまで選抜されたメンバーとなれば流石に顔馴染みが多いわけだが、女子5人のうち2人は流唯にとって初めて見る顔だった。今年に入って2人揃ってサークルに加入し、早速旅行に参加したのだという。
「オレ達がイケメンだから今年は新入生勧誘も成功して1年は可愛い子ばっかりだったし、ついでに2年の女子まで増えちゃったってことだな!」
と翔が笑いながら男子メンバーに話していたことを思い出した。翔は本当に調子の良いやつだ。
しかし、その1年の可愛い子達が全部3年に持って行かれ、すでに何組かカップルが成立しているということは皆知っているはずなのだが…、それは誰も口に出さないでいた。
その旅行に参加した11人のLINEグループで共有された写真のことだ。そんな時間を共に過ごしたメンバーの中に、こんな面倒なことをする奴がいるなんて。そう考えただけでも憂鬱なのだが。
実は気になることはもう一つあった。
この「なりすまし」としか言いようのない、自分の偽アカウントの存在を知るきっかけとなったダイレクトメッセージの差出人のことだった。
そこにこんな名前が表示されていた。
「charlotte(シャルロット) 小鳥遊ミズホ」
その名前と投稿された写真から、差出人の正体はすぐに分かった。
なんと、その人物は地下アイドルの女性だったのだ。
流唯は目を疑った。しかし間違いないようだ。決して有名なわけではないようだが、検索すると現在もライブを中心に活動しているようだった。「charlotte」も「ミズホ」も、流唯はこの時に初めて知ったのだが、同時に頭が追いつかないという経験をしたのも初めてだった。
唯一の手がかりとなりそうな差出人が自分の知っている人物であれば、幾分かこの妙な出来事は解決に向かったかもしれない。しかし全く縁もゆかりもない人物だ。これでは全く事態が把握できなかった。
…しばらく考えたあと、流唯は状況を整理し始める。
Twitterの検索窓に「Rui Ichikawa」を入力した。そうするとすぐになりすましアカウントが見つかった。『誰だ!』とメッセージを送りつけたい気持ちを抑え、ツイートを確認すると5月頃から少しづつではあるが投稿が開始されているようだった。それはサークルの旅行の後であったので、時期も一致した。
内容は至って普通の大学生、いや、大学生活を謳歌しているように感じられ、流唯は自分のTwitterと比べてこちらの方がよっぽど本物らしいな。とすら思った。
というのも、どこから拾ってきたのか、それともこの人物が撮ってきたのか知らないが、カフェやテーマパークでいかにも撮影しそうな写真があったり、自分の顔が写っているものに関しては全てサークルで行った箱根旅行の2日間のものであったがトリミングや加工によって見事に別のシュチュエーションで撮っているかのようだったからだ。
ここまで確認すると、流唯はむしろ感心してしまった。
その次に、なりすましアカウントのフォロー欄を見た。そこで流唯はこいつの目的に気がついた。地下アイドルばかり、200人以上フォローしていたのだ。
フォロワーが数十人いることも気になっていたが、これもすぐに分かった。このアカウントにフォローされ、無差別にフォローバックしているアイドルが2割から3割程いるようだった。
つまり、こういうことだろう。
このなりすましの犯人は巧妙に流唯のTwitterを作り上げ、アイドルを片っぱしからフォローした挙句、何かしらのダイレクトメッセージを送っている。
それを確認こそ出来ないが、自分になりすまして誘い出したりしているのだろう。しかしその行動が噂になり、charlotteの小鳥遊ミズホが意を決してあのようなダイレクトメッセージを送るに至り、それがきっかけで発覚したというわけだ。
しかも信憑性を高めるためか、流唯のブログのリンクまで貼ってあった。徹底して流唯のことを調べあげているようだ、それもタチが悪い。しかしこれではいずれバレただろうと思った。
肝心の目的が分からないことが何より不気味であった。
こんなことをして何ができるだろう。出会いを求めていたのか。それとも単純に流唯を貶めるための嫌がらせなのか。ミズホの言っていた「悪い噂」というのも気になる。まさか犯罪に利用されているのでは…
そこまで辿り着いたものの、対処方法に困った流唯は結局何も出来ないままでいた。
「まあ、気を落とすな!少年!」
考え込んでいた流唯の元に、楓佳の明るい声が届いた。
「こういうことがあるくらいだから、流唯もSNSのアイコン自分の似顔絵とかイラストにしてみればいいんじゃない?ほら、私みたいに!今度みつが描いてくれるって約束してくれたんだよ。そうなったらいいなー、なんて実は思ってたんだけどね。ふふっ、超ラッキーだよ。描いてもらったら私のアイコン全部それにしようと思ってるの!」
それを聞いて流唯は微笑みながら、軽く息を吐いた。やっぱりな。
どうせそれが目的だったんだろうなと、薄々勘づいていた。
先程の様子だとお互いのLINEも知らないようだったし、なにより2人が会話している姿を見ていて違和感があった。2人の雰囲気がまるで違っていたからだ。
中学、高校で同じ学校だったと説明していたが、もしかしたらあまり仲良くなかったのかもしれない。新塔みつの最近の活躍を見て、あわよくば自分をモデルにしてもらおうという魂胆があったのだろう。まあ、楓佳は美人だ。お互いにwin-winの関係ではあったかもしれないが…
楓佳としても相手が断りづらいことが分かっていたのだろう。
「僕だってみつさんに描いてもらえるならそうしたいさ」
流唯は楓佳に同調しつつ、自分の話はここまでという空気を出した。
時刻は4時を過ぎ、2人は店を出ることにした。
「今日はありがと、帰りは大丈夫?」
「うん。ここで平気だよ。このあと中目黒行こうと思ってるんだけど、ちょっと早いからこのまま原宿でもう少し買い物していくつもり!」
「そっか。じゃあ僕は駅に向かうよ。気をつけてね」
楓佳の後ろ姿を見送って、流唯は帰路についた。
楓佳には彼氏がいる。
24歳の薬学生で、僕と楓佳とは別の大学に通っている。その男はいわゆる塩顔イケメンという感じで、楓佳とは美男美女でお似合いであった。
しかも身長は180cmあるらしく、楓佳との身長差は30cmだ。
中目黒には彼のバイト先があったはずだから、そこに向かうつもりなのかもしれない。楓佳との別れ際の話を思い出しながら、流唯はそう思った。
中目黒のスタバは4階建ての「スターバックス リザーブ ロースタリー 東京」という店舗になっていて、店内で焙煎工程を見れるだけでなく、2階には紅茶やハーブティー、3階にはカクテルバーがあり、4階にはセミナースペースまで揃っている。
流唯は無類のスタバ好きであると自覚しているが、この店には最近行けていなかった。その理由として店自体の特別感以上に、楓佳の彼氏がバイトしているというハードルの方が高いと思った。
「ふぅ」
明治神宮前駅の改札を通ると、思わずため息が出た。
今日みたいに2人で会うのはこれが3回目だ。楓佳がどういうつもりか知らないが、僕が楓佳からの誘いを断らないのは彼女に好意を寄せているからなのだが。
流唯は複雑な考えを巡らせながら、1人電車に乗り込むのだった。
副都心線と東横線を乗り継ぎ、流唯は最寄駅の学芸大学駅に着いた。
彼が住んでいるのは、東横線学芸大学駅から徒歩15分のアパート。3階建ての3階の部屋だ。
大学まで自転車で通えないこともないのだが、流石に大変なので流唯は通学定期で通っている。
大学がある渋谷駅までは3駅で、通過駅は代官山、中目黒、祐天寺と流唯のお気に入り駅が並んでいるため、途中で降りることも珍しくなかった。
改札を出て外に出ると改めて日差しの強さを感じた。夏の空気がした。
長野から上京した流唯にとって、この土地で過ごす夏は2度目になる。昨年の経験を経て分かったことだが、夏場に駅から自宅まで15分歩くことはなかなかの苦行だ。
現在の家を気に入っている流唯だったが、この点に関してはどうにかしたいと感じていた。しかし、駅に近づくにつれて高騰していく家賃を見ると諦めざるを得ないのだった。
イヤホンを取り出し、スマホのミュージックアプリを開く。駅前の日差しが当たらない場所に立ち止まること約15秒。40分程で終わるお気に入りのプレイリストを選択し、音楽を流した。そのまま歩き出そうとしたまさにその時だった。
スマホの通知が光った。バナーに表示された通知に差出人の名前が表示されていたが、名前は途中で切れてしまっていた。インスタのダイレクトメッセージだった。
衝動的にその通知をタップすると、すぐにそのメッセージの全文が表示された。
「学芸大学駅に着いたけど、どこから出たらいいの?」
彼は絶句した。
思わず後ろを振り返ったが、すぐに目線をスマホの画面に戻す。何度見てもその名前に見覚えはなかったが、どういう人物なのか想像することは簡単だった。
「マカロンクリーム 筒井アミ」
またしても見知らぬアイドルからダイレクトメッセージが届いたのだった…
小説1-②に続く