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マトリックス(創作)

「言葉であそぼ」では、五十音を使って物語を描いていきます。今回は「ま」から始まる言葉がたくさん入っています。

「マトリックスを観たのが最初のデートだったか?」と貴方が聞いてきた。

「いいえ。レイダースよ」と答えた私をまじまじと観た後、「そうか。2回目はキャノンボール2だったか?」と言う。

「そう。2回目はキャノンボール2」と答えてクスクスと笑うと、「ひどかったよな」と貴方も笑った。

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年齢も離れていて、性格も真逆。マイルドな貴方と負けん気が強い私の共通点といえば、一人っ子でマイペースなことと、映画の感じ方だった。

あのシーンが良い、役者がダメだ、あそこの台詞がささった、音楽が素晴らしかった、監督は真っ向勝負に出て成功したな、などなど。私たちは一緒に映画を観に行った後は、互いに感じたことをまっすぐに言い合い、感じ方が一致することに満足した。

炎のランナーを観たときは、感動でしばらく動けなかった私を黙って待っていてくれた。

お金のない二人は、片道1時間以上歩いて映画館へ行き、友人たちからもらった株主優待券で映画を観て、感想を言い合いながら、また歩いて帰った。

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「最後に観た映画はなんだったかな?」と貴方が聞いてくる。
「覚えてないわ」と私が答えると、
少し間があってから「そうか」と言って病室の窓の外に目をやった。

緩和ケア病棟に入院している貴方は、細かった身体をますます細くしてベッドに横たわっている。
真っ白な壁に囲まれた病室はちょうど良い気温に保たれ過ごしやすそうだったが、真夏の暑さを懐かしがっているようにも見えた。

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何度も何度も一緒に映画を観に行って、生活の目処も立たないのに、私たちは夫婦になった。まじりけのない気持ちで、毎日一緒にいたいと思ったのだ。
無職だった貴方が仕事を見つけ、私は子育てをしながらずっと働いて、暮らし向きは楽ではなかったけれど、まったりと楽しく過ごしていた。
慣れない仕事に疲れている貴方にマッサージをしながら「大好き」と伝えると、貴方は黙っていたが、まんざらでもないという顔で喜んでいるのがバレバレだった。


結婚して10年が経ち、転職を繰り返した貴方は突然独立をした。真面目な仕事ぶりを認められて注文は舞い込んできたけれど、私は金銭感覚が鈍い貴方にイライラすることが増えた。
見積もりが下手で支出が収入を上回る、お金が入ると友人たちに全部おごってしまう、お金がなくても家に人を招き入れる。そんな人のよいところも好きだったはずなのに、私が変わってしまったのか。

親が残してくれたマイホームがあり、私も働いているので、生活はまあまあなんとかなっているものの、この人に任せていては子どもたちの進学も心配だ。そんな不安が日に日に膨らんでいった。
そして、貴方のマイナスなところにばかり目がいくようになっている自分のことも嫌になっていた。

ある日貴方の飲み代が足りなくなって、でもどうしても飲みに行きたいというので、私がこれまで集めていた映画のパンフレット全部を古本屋に売りに行った。悲しかった。
このころ友人と観た「マルコヴィッチの穴」にも影響されて、私は心を決めた。

貴方の仕事の車で二人きりになったときに
「このままの生活では子どもたちの将来が心配なの。離婚しましょう」と伝えた。貴方は少し黙ったあとで「もう一度チャンスをくれないか」と言った。

車を運転している貴方の表情は、助手席の私からはよく見えなかったが、私は了解した。
真新しい二人になって出直せるかもしれない、またとない機会だと思ったのだ。

2年後、結局何も変われなかった貴方と私は、丸くおさめることもできずに、別々の道を歩むことにした。

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「いい子どもたちに育った。ありがとう」と、貴方がふいに言った。
私が「そうでしょ。感謝しなさいよ」と言うと、貴方は弱々しくフフフと笑った。

そういえば、長男の結婚式のときにも同じやり取りをした。あのとき貴方は号泣していたよね。こんなに泣くのを初めて見たなと微笑ましく感じたのを覚えている。
数年後には孫に会えて喜んでいたと子ども経由で聞いてはいたけれど、貴方と私は結婚式以来、会っていなかったね。

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末っ子から、貴方に癌が見つかってもう助からないこと、延命治療はせず緩和ケア病棟に入ることを知らされ、「お母さんどうする? お見舞いに行く?」と問われた。前触れもなく知らされたわりに私は落ち着いていて「行くわ」と迷わず即答した。
まさか私が自分から貴方に会いに行くなんて。でも会いに行こうと思ったのは間違いなく私の本心だった。
いろいろあったことを「ま、いっか」と思えるのは年月のおかげもあるだろう。

「余命宣告されても、お父さんはこれまでとまったく変わってないよ」と末っ子から聞かされて、どんなときも飄々としていた貴方らしく、生を全うするのだなと思った。

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ベッドに横たわる貴方に疲れが見えてきたので、「そろそろ失礼するね」と言ったら、まっすぐに私を見て
「また、会うことができるかな」と言った。

「またね」と手を握ったら、その手をじっと見つめて「丸くなったな」といたずらっぼく笑った。

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貴方のイタズラするときのまなざしも、まろやかな声も、全部全部大好きだった。
若いころの私は、魔法にかかったように貴方に夢中で、貴方のすべてがまぶしくて、一緒にいられるだけで幸せだった。

貴方と私の人生が交わったことが母体となって、子どもたちや孫たちが生みだされ、今はそれぞれの人生を前を向いて歩んでいる。
回り道をしたかもしれないけれど、貴方も私もマニュアルのない人生を十分楽しんだのだ。

貴方が映画のマトリックスを話題にしたのは、偶然ではなくて何か意味があったのかもしれない。仮想世界ではなく現実で幸せだったこと。

次に会ったときは、私も「ありがとう」と言おうと心に決めた。

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空にぽっかり浮かんだ満月を眺めながら家に帰り、いつもならつけないテレビにスイッチを入れた。
無音の部屋が寂しい気がしたのだ。

テレビから華やかな声が流れてきて、私はホッとしながら自分のためにお茶を入れた。

テレビに出ているタレントさんが、最近観たインディージョーンズの映画について話している。

あっと思うまもなくテレビからインディージョーンズの音楽が流れてきて、私と貴方が初めて一緒に観たレイダースが、まざまざと思い出された。

「これも貴方のイタズラなの?」と呟いて、私は声をころして少しだけ泣いた。

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