太鼓のタイミング(創作)
目が覚めたら、いつもと様子が違っていた。
壁にプロ野球選手のポスターが貼ってあり、ターコイズブルーのカーテンが揺れている。
ポスターは見覚えがある。タブチだ。若いころのタブチ。
よく見ようと思ってベッドから身体を起こして気がついた。ここは中学生のころのオレの部屋だ。
これは何かのドッキリでオレを騙そうとしているのか?
この部屋があった実家は畳んで、今は両親は田舎に引っ込んで小さな田んぼを耕している。部屋を再現できるような情報をもったやつは姉ちゃんくらいか、なんてボンヤリ考えてしまった。
人生の黄昏にさしかかった年齢のオレに、こんな企みを仕掛けてくるような知り合いは思い浮かばない。
それにしてもずいぶん丹念に再現したものだ。写真と照らし合わせたとしても、ここまで出来るものだろうか。
丈の長い学ランがかけてあるから中3だな。高いところにまでびっしり漫画が詰まった本棚や、机の上のぐちゃぐちゃ加減もなんともリアルである。
なにげなく顔に手をやって、感触に驚いた。肌がやわらかい。
立ち上がって鏡をのぞきこんで、もっと驚いた。
そこには中学時代のオレが映っていたからだ。
軽く頬を叩いてみたら痛い。体温も正常のようだし、夢でも熱でもなさそうだ。
タイムスリップというものだろうか。そうとでも考えなければこの体験の説明がつかない。
オレは、こんな事態でも慌てない自分自身を若干楽しんでいた。
会社では、何があっても動じなくて頼もしいと言われることが多々あって、オレ自身もその評判に満足していたし、自覚もあったから。トラブル対応に呼ばれる立場でもあったから、まずは落ち着いて淡々と観察することに慣れているのだ。
物事を達観しているからと、ついたニックネームは“大仏”。
鏡に映る若いオレに「さすが大仏。受け入れちゃってるよ」と話しかけると、鏡の中のオレ自身がニヤリと笑った。
置いてある漫画雑誌を見て、今はたぶん中3の夏なんだと推測した。
たいした事件もなく平々凡々と生きてきたオレが、唯一荒れていた時期だ。
中学最後の野球の大会で、オレはエラーをしてしまい、不本意な結果に終わった。
みなで目指してきた目標を達成できなかったのは自分のせいだということから、オレは目をそらした。
一緒に鍛錬してきた大切な仲間の声に耳を貸さず、オレはわざと悪い態度を繰り返した。
体育館の裏でタバコを吸ったり、他校の生徒とタイマンをはったり、高校だったら退学になっていたかもしれないようなこと。
タンスに隠してあった母ちゃんのへそくりをくすねたりもした。
元の性格は今のオレとあまり変わらないおだやかなほうだったから、周囲はオレの変化にかなりとまどっているようだった。注意する担任も、多感な時期の生徒をどうしていいかわからなそうだった。
そんなオレが、大仏と呼ばれるほどの性格に戻れたのは、ある出会いがターニングポイントとなったからだ。
平日の昼下がりに駅の近くのゲームセンターでだるそうに遊んでいたら、話しかけてきたのが畳屋のオッチャンだった。
「お前、暇だったらうちに来て太鼓を叩いてみないか?」
学校はどうしたと聞いてこない大人は初めてだったのと、太鼓に興味がわいたのでついていってみると、畳屋の横の建物に和太鼓がいくつか置いてあった。数人の若者と子どもが練習している。
後から知ったが、みんなオレのようにオッチャンに声をかけられていて、初めての奴も何年も通っている奴もいた。
盆踊りの伴奏くらいにしか思っていなかった太鼓の音が、めちゃくちゃダイナミックでかっこいいことに気づいたのはこのときだ。ただただ太鼓の響きに聴き惚れてこの日は終わった。
元来単純なオレは太鼓を叩きに通うようになり、だんだん平常心を取り戻し、高校受験のころには野球部の仲間たちとも笑い合えるようになっていった。
「そういえば、畳屋のオッチャンに御礼を言ったことがなかったな」
外見は中学生だが、魂は3倍以上歳を重ねているオレは、自分の不義理に気づき、情けなくてため息が出た。
太鼓の響きに惹かれただけではなくて、
オッチャンの人柄が、
いつも体当たりでぶつかってくれるオッチャンの真心が、
反抗しても反発してもまるごと引き受けてくれる頼もしさが、
立ち止まってしまっていたオレを歩き出させてくれたのに、
日常が忙しくなってきたときに疎遠になったきり、挨拶にも行かなくなっていた。
自分に自信を無くしたことを見破られたくなくて、短絡的な行動をしていたオレ。オッチャンに助けてもらわなかったら悪習慣を断ち切れなかったのに、このタイムスリップがなければ思い出さなかったなんて、どうかしてた。
御礼が言いたい。
オレはそう思った。
このタイミングでこの時代に戻ってきたのは、たまたまではなくて、オレの人生のやり残しを思い出させるためだったのかもしれない。
オレは和太鼓の練習場に行ってみた。
40年以上ぶりに見るオッチャンは、記憶よりずっと若々しかった。
見た目はちょっとタヌキに似ているんだけど、和太鼓で鍛えているからか体つきはたくましい。首にかけたタオルが似合っている。
懐かしさに抱きつきたくなる衝動を抑えて
「ただいま」と声をかけた。
練習場に入ってくるときは「ただいま」ということ。これは、和太鼓グループの数少ない決まりごとの内の一つだ。
当時は、ふーんとしか思っていなかったが、今なら分かる。「ただいま」という相手がいない子どもがたくさんいたのだということ。オッチャンが縁があった全員と向き合っていたこと。
「おー、おかえり。今日もダイヤモンドを磨いていけ」と、オッチャンは言った。
みんなはダイヤモンドの原石で、磨けば輝くぞというのが口癖だったのを思い出した。
来る途中で買った大福を差し出すと
「おー、食べごろの大福をありがとな」と言う。
大福の食べごろってなんだよ。
そういえば、ここでするたわいもない話も好きだったなと思い出しながら、
「オッチャン、いつもありがとう。感謝してる」と伝えると、
「おー、たまにはいいな。礼を言われるのも」と言ってから、「お前、だいぶ大人になったな。太鼓もうまくなってきたし」とほめられた。
「将来、ちゃんと御礼する。何が欲しい?」と聞いてみると、
少し考えてから、
「タイムマシンがいいかな。時間を旅してみたい」と言い出した。
オレの状況をわかってなくて言ってるんだよね。オッチャンの勘の良さがたまらなくなって吹き出した。
「笑うなよ。タイムマシン欲張り過ぎか? 大金欲しいっていうより夢があっていいだろ」とオッチャンが少しむくれながら言う。
そうだった。
オッチャンがすごいのは、社会の宝であるこどもたちに尽くそうとか、救おうとかって何らかの大志を抱いているわけではなく、自然な行動なところなのだ。
道に迷った子どもが目の前にいたから、一緒に歩いているだけなのだ。
家族とか他人とか関係なく、相手の存在を認めて、レッテルを貼らずに向き合ってくれる。
だから、
ここにいると、
オッチャンと会話すると、
自信ややる気が足し算されていくのだ。
「オッチャンのそうゆうところ、大好きだよ」と言うと、
「そうかそうか。オレもお前らが大好きだぞ」と目を細める。
太鼓の達人というゲームがあったけど、オッチャンは人生の達人だな。
オレは達人と出会っていたんだなと思った。
太陽が西の空に沈んでいく。
明日の朝はどの時代で目が覚めるのかわからないけれど、
今ここにいる瞬間は確かなものだ。
オレはすっきりした気分で、夕日に照らされたオッチャンの横顔を眺めていた。
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