つかの間の綱渡り(創作)
月子は、生まれて初めてサーカスを見ました。
今日訪問したクライアントから「1枚余っているからどうぞ」といただいたチケットを手に、おそるおそるテントをくぐってみたのです。
サーカスを楽しみに集った客たちは、家族連れやカップルばかりで、月子のように一人で来ている人は見当たりません。
始まる前は少し居心地の悪い思いでいましたが、オープニングショーの音楽が流れ出したとたん、そんなことはすっかり忘れてしまいました。
キラキラと輝く照明の下で、
クマの扮装をした男の子が二人、猛スピードでツートンカラーの一輪車を乗り回しています。
その横では四人のピエロが大道芸を繰り広げています。色とりどりのツギハギだらけの衣装がとてもかわいらしい。二組の対になっていて、まるで鏡に映っているように息がピッタリです。
爆音とともにあらわれたのはオートバイ軍団。赤紫色のお揃いのつなぎが、つつじのようにあでやかです。メッシュ状の金属でできた球体にオートバイごと次々と乗り込んでいき、遠心力を利用して突き進む姿が痛快です。
そして、空中ブランコ!!
あんなに高い場所でユラユラと揺れるなんて、「信じられない!」と、月子は思わず強い口調で言ってしまい、あわてて口をつぐみました。
でも、観客は誰も月子の言葉なんか気にしてはいません。みんな、固唾をのんでブランコを見守っています。
静寂に包まれ、ただブランコのきしむ音だけが聞こえるテントの中で、艶やかな女性がブランコを離れてツインテールを揺らしながら宙を舞い、反対側のブランコの男性の手をしっかりとつかみました。
次の瞬間、大歓声と割れんばかりの大きな拍手。
月子は「よかった」とつぶやきました。
空中のショーが続きます。
高い位置に一本の綱が張られ、その上を一人の青年が歩いていきます。
目はまっすぐに前を見据え、足元は見ていません。つま先の感覚だけで進んでいるみたいです。
月子は知らず知らず、手を胸の前に組み、真剣に祈っていました。
「どうぞ、無事に渡りきれますように」
彼が少しつまずいたときには、「あっ」と小さく叫んでしまいました。
彼が綱の中央付近で逆立ちをしたのを見たときには、心臓が止まりそうでした。
綱の端まで歩き終え、観客に向かってお辞儀をした綱渡りの青年はとても美しく、月子は立ち上がって拍手をしました。
彼の背中に翼が見えた気がしました。
サーカスが終わって、帰り道を歩きだした月子は、習慣として歩いてはいるものの放心状態でした。
「世の中にこんなに楽しい場所があったなんて! そして、あんなに美しい人が存在していたなんて!!」
ずっと慎ましい生活を送ってきた月子にとって、サーカスは想像していた以上に衝撃的で、まるでつむじ風にまきこまれたようでした。
翌日、会社の昼休みに、同僚のエミにサーカスの話をしたら、
「チケットもらえたなんてツイてたわねぇ。そんなに夢中になってつんのめって話すなんてめずらしい。よほど楽しかったのね」と、月子のお弁当に入っているつくねを一つつまみながらエミが言いました。
「そんなに気に入ったなら、また観にいったら? 月が変わるまでは公演しているみたいよ」と言いながら、エミが二つ目のつくねを取りました。
いつもの月子なら、二つ目を取られるのは阻止するのですが、エミの言葉にハッとしてつくねどころではありません。
「また観に行ってもいいのね?!」
あの楽しい時間をまた過ごすことができるかもしれないことを、月子は心から喜びました。
午後の仕事を勤めあげ、月子はサーカスのスケジュールを確認しに、テントまで足を運びました。
昨日は緊張して気づかなかったけれど、テントの入り口につがいのフクロウがいて、こちらを見ています。
入り口のおねえさんが月子に
「前のほうのお席が空いていますよ」と声をかけました。
月子は促されるままに、チケットをつかむとテントの中に入っていきました。
めくるめく感動。
そして
綱渡りの青年の美しさ。
今日も心配でたまらなくて、手の甲に爪の跡がつくくらい固く手を握りしめ、月子は祈りました。
「どうぞ、無事に渡りきれますように」
青年が綱を無事に渡り切り、お辞儀をするのを見届けると、月子の心の中はあたたかいものでいっぱいになりました。
明日も来ようと決めて、前売り券を買いました。当日券よりも少し安いのです。
ちょっと考えて、追加で明後日の分まで買いました。
会社の昼休みにエミにそのことを話すと、
「ついに推し活デビューだね。慎み深いところが月子の良さだけど、たまにはハメをはずすのもいいよね」と、エミがツナサラダを爪楊枝でつまみ食いしながら言いました。
エミまで浮かれているのが月子に伝わって、月子もつられて笑いました。
ツアーについて回る推し活の人たちの気持ちは分かる気がしました。
毎日毎日、月子は綱渡りの青年を見るためにサーカスに通いました。
不思議なもので、つまらなかった通勤も、帰りのことを考えると楽しくなってきました。よく笑う様になったせいか、疲れが取れやすく肌もつやつやしてきたように感じました。
月子は、一度だけ青年宛にお花を差し入れてみましたが、一度だけでやめました。
想いを告げていないからこそ、毎日観にくることができるのです。知られてしまったら恥ずかしくて来ることができなくなってしまう、それはつらいと月子は思っていました。
いつも綱の同じ場所でつまずくので、入り口のおねえさんに「ひっかかりがあって危険なのではないでしょうか」と尋ねたこともあります。このときは大丈夫だと返事をもらいましたが、翌日も同じところでつまずいていて、月子の心配の種は尽きませんでした。
そしていよいよ、公演最終日。
エミは「楽屋に行ってツーショット写真をお願いしてみたら? 付き合ってるみたいに親しい近さで」とからかってきたけれど、そんなことは月子は望んでいませんでした。
ただ、真剣に応援していたことは通じていたのではないかと、それを確認したい気持ちはありました。
迷ったけれど、月子はいつも通りサーカスを見て、綱渡りの青年の無事を真剣に祈って、家に帰りました。
何もアクションはしなかったのです。
楽しみを教えてくれたことに感謝し、心のつながりに感謝して、月子は眠りました。
月子はその夜、綱渡りを終えた青年がお辞儀のあとで月子にむかってほほえんでいる、そんなしあわせな夢を見ました。
次の公演地に向かうバスの中で、サーカスの団員たちが話していました。
「毎日来てくれていた尽くすタイプの熱心なおねえさん、いたでしょ? 綱くんのファンの」
「あのおねえさん、やっぱり綱くんのファンよね。真剣に見ていたものね」
「Twitterとかやっていないのかな。綱くんがよく出来たロボットだって知らないんだよね?」
「知らないなら知らないままがいいね」
つかの間の作り話でございました。
最後までお読みいただきありがとうございます。