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郵便ポストから始まった(創作)

「言葉であそぼ」では、五十音を使って物語を描いていきます。今回は以前書いた「ゆ」から始まる言葉だらけの物語をリメイクしています。

日曜日の夕方、僕は湯河原に向かっていた。突然温泉に浸かりたくなったのだ。上司に、月曜に有給を取る旨をメールして、ゆりかもめから乗り換えて湯けむり号に乗った。

大学の幼児教育サークル時代から付き合っていた彼女から、突然「別れたい」と連絡がきたのが土曜日。郵便ポストに入っていた手紙には1行だけしか書いていなく、僕は激しく動揺した。

サークルで使う指人形作りに苦戦していた僕の横に座って、黙って手伝ってくれたのが親しくなるきっかけだった。ユーミンのコンサートに行ったり、UFOを探したり、幽☆遊☆白書を読み耽ったり。ゆっくり関係を育て、ゆくゆくは一緒になるだろうとおぼろげに思っていた。プロポーズこそしていなかったが、結納は要らないね、式も親族と親しい友人だけでなんて、話したこともある。

そんな彼女からの突然の手紙(しかも1行!)を読んで、僕は震えた。湯島の白梅みたいに裕福な暮らしを求めての鞍替えだろうか。気の利いたユーモアも言えない僕に愛想を尽かしたのか。本格的にユーフォニアムを吹く趣味を持つ彼女と比べて、特技はゆで卵を上手に剥くことだけだなんて、自分自身でも魅力があるとも思っていない。

優秀でも勇敢でもない僕は、彼女を問いただす勇気も出せず沈黙した。

特に温泉好きでもないのに、温泉でゆったりしたら冷静になれるかもと、湯河原の有名旅館に電話したところ空きがあった。行き先を湯河原にしたのはただ単に思いついたからで、後で「どうせなら由布院くらいまで遠出すれば良かった」と気づいたけれど、実際そんなゆとりはどこにも無いのだった。

駅からの送迎バスを頼まず、遊歩道の石畳を踏みしめつつ旅館に向かう僕の前を女性が歩いている。夕陽に染まる見事に結い上げた髪とうなじを眺めながら、どこかの有閑マダムかなと想像を膨らませていたが、どうにも歩き方が危なっかしい。この先は旅館しかないはずなので、「荷物を持ちましょうか?」と声をかけてみた。

身体を揺らしながら歩いていたマダムは静かに振り返り「助かります。迎えを頼まず歩き始めたことを後悔していたところなの」と微笑みながら言った。優柔不断な僕が初対面の人に話しかけるなど(しかも女性に!)かなりレアなことで、後から心臓がバクバクしてきた。

旅館の入り口で荷物を手渡すと、「貴方もこちらにお泊まりなの? 夕食をご一緒してくださらない?」と言う。断る術を知らない僕は黙ってうなづいた。

軽くひと風呂浴びて、約束の6時半を待つ。ユトリロが飾られたロビーにあらわれたマダムは、緩いワンピースに着替えていた。旅館の浴衣姿の僕は不釣り合いかと心配したが、「湯加減がちょうど良かったので長く浸かってしまって、湯あたりしそうになったわ」と気にせず笑ってくれた。湯舟に入っているマダムを想像しそうになって、慌てて打ち消して、勝手にドギマギして、、、高校生か僕は。

マダムは一つひとつの仕草がとても優雅だ。湯豆腐に柚子を絞る指先を凝視してしまい、ハッとして床に目をそらすなんてことを繰り返した。優美なのに、ざっくばらんでユーモラスなところもあるマダム。豊かな知識をひけらかすことなく、どんな話題でも楽しそうにしてくれるので僕も調子に乗って、ゆるキャラのバイトでの失敗談や、ユリゲラーのスプーン曲げの真似をして、愉快な時間を過ごした。

「少しお庭を散歩しませんこと」と言われ、僕は従った。館内で流れていたユモレスクの音が遠くなり、庭は僕たちの足音だけが響いていた。

「夕食をご一緒してくださってありがとう。実はね」とマダムは静かに語り始めた。今日は20年前の約束を果たしにきたこと。それは、行方知れずになっている恋人との待ち合わせであること。行き先も告げずに去ってしまったその人を今でも忘れられないこと。雄大な大地が好きだったからユーラシア大陸には居ると思うんだけどと、夕顔の君のように寂しく笑う。

縁もゆかりもない僕にだからこそ話しやすかったのか。夕闇が深くなった空を眺めながらマダムは過ぎた時間を許すかのように語り続ける。

「このお庭でね、手を取って踊ったことがあるの。『王様とわたし』のユル・ブリンナーみたいで本当に素敵だったのよ。そのあと雪が舞い始めて…」と、遠い目をする。夕方見かけたときは大輪の薔薇のように思えたが、湯上がりの火照りも取れた今は、清楚な百合のようだ。揺るぎのない愛情は聞いていて心地がよい。「もし今晩誘惑されたら身を委ねてしまうかも」なんてユンケル飲みながら歪んだ妄想をしていた自分を恥じる僕。

「見て! 月が!!」

マダムの指が空に動く。

ふと見上げると、先ほどまで雲がかっていた空に、弓張月が浮かんでいた。その幽玄な輝きに長いあいだ見とれていた僕は、ふと彼女に指輪を用意していたことを思い出した。突然の手紙のショックでそんなことも忘れていたのだ。

彼女に連絡しよう。

ちゃんと話をして、今度はここに彼女を連れてきたい。僕にとって唯一無二の存在であること、ずっと一緒にいたいと思っていること、用意していた指輪を渡したいことを伝えよう。

優先順位がはっきり見えてきて、清々しい気持ちで視線を戻すと、

そこには誰もいなかった。

。。。。。

誰かが立ち去った気配もなく、誰もいない空間が広がっていて、僕は混乱した。「え? なに? どういうこと?」

マダムは消えてしまった。旅館の人に尋ねても、僕は一人で食事をしていたとゆう。

夢のような出来事とはこういうことなのか(たぶん違うだろう)。幽霊なのか(それもたぶん違う)。

彼女はどう思うか、とても聞いてみたい。このユニークな出来事と、それを受け入れた僕を。

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