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小説『本日もまた断酒』

 お酒をやめよう。

 一度目の、二日酔いで丸一日を吐き狂って潰した二十歳の頃にした決意は直後に誘われた合コンによって頓挫した。

 二度目は同じ二十歳の頃。合コンで歴史的大敗を喫した夜。やけ酒に溺れて、またも吐いた。嘔吐の海で泳ぎながらした決意は、一週間後のゼミの飲み会でびりびりに破かれた。

 三度、四度、五度、六度。密かに決意をしては嘔吐のように流れていく。汚い話だ。断酒宣言の数だけ、私は嘔吐を繰り返してきた。

 昨夜もまた吐き散らしてきた。渋谷の街を少しばかり汚して帰りながら、私は何度目かわからない宣言をした。

 酔いを越え、歩く度にぐらりと揺れる脳味噌で考えた。なぜ私は禁酒宣言などとかぐや姫もかくやという試練を自らに課すのか。禁酒が成功した暁には月の姫君がいると言うのか。だが、私に試練を課しているのは他ならぬ私である。その先に待っているのが自身であると知ってどうして頑張れようか。かくして私は今日も飲むのだ。

 渋谷からどうやって帰ったのかはわからない。二度の乗り換えをなんなくこなしたらしい私は、自宅の最寄り駅に着いていた。夜風が心地よく吹いて、私の酔いを幾分飛ばしてくれた。

 夜も深く、古くからの住宅街であるこの地域は静まりかえっていた。駅前に一軒だけあるコンビニの明るすぎる照明がやけに目立っている。
 その横、コンビニの影に一層黒い塊が見えた。酔っぱらいがうずくまっているんだな、と思った時にはすでに歩み寄っていた。世の中、持ちつ持たれつだ。珍しく酔いも冷めつつある私が助けてあげねば。

「もし。大丈夫ですか」

 声をかけると軽く片手をあげた。近づいてはじめて気が付いたがどうやら女性のようだ。ブラウンに染めた髪の毛は短めに揃えられていて、卵のような形に丸まっていた。後ろ姿しか見てないが今時の若い女性という印象だ。同年代ほどだろうか。

「水、いりますか?」

 問いかけるとゆっくりと頷いた。相当酔っているようだ。頭が重くて頷くことすら億劫なときが私にも多々ある。

「ちょっと待っていてください」

 女性をその場に待たせ(というかよほど酔っているのか動かないだけだが)コンビニに入り、ペットボトルがべっこべこに潰せるというエコな水を買った。

「はい、飲めますか?」

 ペットボトルを差し出すと女性はうろんな目をこちらに向けた。暗くてわからないが焦点も定まっていないのではないか。

 私の不安は的中した。女性は私からペットボトルを数回からぶった後に奪うと、キャップを捨てて浴びるように水を飲み出した。八割以上こぼれた水は彼女のシャツを濡らして、地に帰って行った。エコもへったくれもない。

「つめたー」

 びしょぬれになったシャツをはりつかせて女性が叫ぶ。ブラジャーが透けている。

「断崖絶壁だな」

 思わず漏れた。

「あ?」

 心の声というものは往々にして聞かれてはならないことのほうが多い。目が据わっている女性に睨まれることになるからだ。

「お前、今馬鹿にしたな」

 言葉の乱れがひどい。元々かもしれないが。

「してません。してません」

「聞こえたよ。誰が飛行甲板だって?」

 そんなことは言っていない。何故かかっこよく改竄された私の悪口でもって女性はいたく傷ついているようだった。

「そうは言っていません。しかし、確かにデリカシーのないことを言いました。すみません」

 素直に謝罪をする。悪いことはすぐに謝ったほうが許されるものだ。

「……うおぇ」

 私の謝罪を受けて、彼女は吐いた。

 詰め寄っていた彼女が吐けば、私に降りかかるのは道理である。酸っぱい臭いにまだわずかに酔いの残っていた私も誘発されそうになったが、強靱な理性で踏みとどまった。

 しばらくの間、女性が息を整える音と、吐瀉物が地面にしたたり落ちる音だけが響いていた。私はこの汚いものを片づけることになるコンビニ店員に心中で精一杯謝罪をしながら女性が落ち着くのを待った。だというのに。

「あー、吐いたらすっきりしたよ。ごめんね、かけちゃって。お詫びに飲みにおいでよ。私の家、お酒いっぱいあるから」

 ふーっと最後に一息ついた女性が次に発した言葉は見事に私の謝罪を台無しにしたのだった。

 私はしばらく迷って、「それより洗濯機を貸してほしい」と頓珍漢なことを言いながら女性の誘いに乗ったのだった。

 

 朝、目を覚ますと見慣れぬ景色だった。床に横たわる私の目の前には甘いお酒の缶がいくつも転がっていた。なぜか裸で寝ていたらしい。床がひんやりと気持ちよい。身体がひどくだるいので伸ばそうとすると足に何かが当たった。見てみると女性が裸で寝ていた。ブラウンに染めた髪の毛は短めに揃えられていて、卵のような形に丸まっていた。そして、ひどくぼさぼさだった。

 私は昨夜致してしまったのだろうか。何も覚えていないもどかしさに頭を抱える。心中で昨夜の自分に賞賛と罵倒を同時に浴びせながら、傍らで眠る女性が起きぬよう静かに服を着た。ドアを開けると晴天だった。燦々と輝く太陽に吐き気を催しながら、私の心は本日も高らかに断酒を宣言するのだった。


#小説 #ちょび #お酒


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