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プラトニック ラヴァーズ

『お前、俺のために死ねるか?』

自分の半分ほどの歳の青少年に対し、なんて事を言うのだこの人は、とその話を聞いた時は思ったのだが、そこから3年経った今、その言葉が含む本当の意味が、感覚的に分かり始めた気がする。

かつて、知る人ぞ知る「ダチョウ放牧事件」なるものがあった。
事の詳細は割愛するが、その主犯となった少年は命を捧げたい憧れがいたという。その人のためなら死ねると、当時彼は言ったそうだ。

なんでも良いのだが、共に打ち込める何かの取り組みがあったとして、その取り組みが自分にとって大切であれば大切であるほど、共に背負ってくれる仲間にどこまで自分の全てを委ねられるのか、大概の大人は忖度するだろう。

相手がある程度の時間的制約を伴う大人であれば尚のこと、手間や報酬も発生する。目の前の相手にどこまでの権限を付与するか、求める成果をいつまでに提出してくれそうか、それらが短期的・長期的にそれぞれ自分にとってメリットはあるのか。そんな割り切れる指針を持った上で、大概の大人は人材の採用可否を決めている。
だからこそ、その少年が命を捧げたいと誓ったその大人は少年に問うたのではないだろうか、『お前は、どこまで本気で取り組めるのか』と。


他人(ひと)は変えることができないから、
自分が変わるしかない

対人関係、処世術においてよく言われる話だが、基本的に私も同意だ。

例えば、
「上司に勤務態度を注意されたから、仕事をしているそぶりを見せる」
のでは、注意された当人の根本的な仕事へ対するスタンスは変わらないが

「部下に質問された時にいつでも答えられるよう、隙間時間も仕事に関する勉強をする」のであれば、内発的な動機ゆえに、目標達成のための的確な行動を自ら考え、取り組めるようになるだろう。


誰かにどう言われたから、とか
周りが皆こうしているから、とか
体裁的にそうした方が優位になるから、とか

そうした外発的動機由来ではなく、自分の内側から芽生えた「(共にある)目標に対し、自分がどのように価値を見出し、自発的に動いていける精神状態であるか」
これこそが、何かを任される上で本当に問われていることなのではないだろうか。


「経営者は孤独だ」とよく言われるし、それは事実でもあると思う。しかし経営者同士も近い悩みを持っている者と分かち合える事もあるし、経営をしていなくとも誰にも悩みを打ち明けられず、孤独を感じている人もいる。

相手を信じ、信念を共有するために『お前は、どこまで本気なのか』と、彼は言ったのではないだろうか。俺はもちろん本気だし、お前が本気ならば全力でそれに応える覚悟はできている。お前にはそれを受け入れる覚悟が出来ているか、と。


全てのことがお手軽になる昨今、簡単に始められることが増えた分、簡単に放棄することもできるようになった。総体的にインスタントなものが増えている。だからこそ、本当に大事なこと、磨くべきもの、学ぶべき挫折を味わう機会が減ってしまっており、インスタントな経験の中毒性に侵されてしまう事も多い。
だからこそ、私たち大人は忖度しているのだ。君は耐えらるのだろうかと。

もちろん、口で「本気です」という事は容易い。しかし大人はその表面的な言葉を求めている訳ではない。体を張って、思考を巡らせて、時間をかけて、命を捧げる覚悟があるのかと聞いている。そして、これまでインスタントなものを摂取して生きてきた人たちにとって、それが容易ではないことも分かっている。
だが、大人たちが彼らを信じたいと思っているのもまた事実だ。その少年がもがくならば、本当に本気で在りたいと思うならば、支えたい、協力したいとも思うだろう。

『もちろん、俺はお前のために死ねるよ』


その大人は少年にそう言ったが、背中を任せるとはそういう事だ。その上で、もし仮に少年が裏切ったり、反逆を起こしたりしたととしても、大人は少年を責めないだろう。その少年を信じようと決めたのは、自分なのだから。だからこそ、相手を選ぶ。そして問う、『お前は俺のために死ねるのか』と。俺の本気を、お前は受け止める覚悟があるのか、と。

信じては裏切られ、信じては離れられ、それは何も全てがマイナスの事象と言う訳ではない。言うは安く行うは難し。その難しさを何よりも知っている。知っているからこそ、見守っている。放棄したからと言って少年を責めることもない。例え少年に殺されたとしても、大人は少年を呪わないだろう。
相手と自分との、今回の人生の交錯地点が終わっただけで、もしかしたら5年後10年後50年後にどこかで再会するかもしれない。そんな風に考えるのではないだろうか。


くるもの拒まず去るもの追わず、
それを冷たいと言う人もいるかもしれないが、決して浅いものを望んでいる訳ではない関係を、プラトニックな恋人のような関係を、どこまで唯一無二の関係に築いていけるのか。魂の結びつきになるか。
相手を愛し、信用し、その上で見返りは求めない状態を、どこまで拡散していけるのか。
それこそが、人としての自分自身に問われている精神の鍛錬なのだろうな、と。


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