透明人間な世界のアジア人
もうすでに過去の出来事になり、出遅れた感というか、世間はもう違うところにいる感は否めませんが、先日のオスカー授賞式について。
ニュージーランド在住なので、翌日のYoutubeを情報ソースとしてオスカーの詳細を知りました。「へ〜、エマ・ストーンが主演女優賞を2度目の獲得なんだ。受賞スピーチをみてみよう。」と選んだ3分ほどの動画。見終わった時に感じた強い違和感。
昨年の受賞者であるミシェル・ヨーさんに名前を呼ばれ、自らの晴れ舞台にあがるエマ・ストーンさん。そこで彼女の視線と意識は明らかにミシェルからは程遠く、舞台上の他の白人女優さんたちに注がれているのが分かりました。それでもその場とエマを盛り上げようと、ミシェルとがとったとっさの行動の気遣い。それら一連の出来事になんとなくもやもやしてしまい、受賞スピーチを聞くこともなくその動画を閉じました。繰り返しますが、これはエマ・ストーンの行動を否定的に切り取ったYoutube動画でもなんでもなく、ただの受賞シーンです。私がそう受け取っただけ。…だと思っていました。
が、その後あちこちの日本語ニュースサイトでの報道が加熱して、私が感じたモヤモヤはアジア人として間違ってなかったんだと知ります。ニュージーランドではほぼ取り上げられていませんでしたが…(キー・ホイ・クアンとロバート・ダウニーJr.はニュースになってた)。
このモヤモヤの中身は私にとって「膝カックン」でした。
オスカー授賞式という完璧な夢の世界が見たかったんです。昨年の受賞者であるミシェルが渡すオスカー像を、喜びいっぱいのエマが感動を分かち合いながら受け取る。それがごく普通の流れであり、逆にこれ以外の受け取り方なんてあるの?ですよね。という意識があったためか、その瞬間を目の当たりにしたときは「そうきたか!」と膝カックンされた思いだった、という意味で。
「ハリウッドの人種差別はえげつない」みたいなことはよく聞きますが、さて、これが人種差別…とまではいかなくても「無意識の差別」に該当するのか?
「エマは意識的にやったんじゃない」「パニックになってたから」「ドレスが破れるというアクシデントでテンパっていたから」「2度目の主演女優賞に高揚していたから」などなど、擁護の記事もたくさん読みました。
個人的な意見としては「その通り」だと思います。わざとやったんじゃない。「無意識」の行動だと思います。本当に舞い上がっちゃって何も見えなかったんだろうなと。
だって、どこのニュースサイトでも引き合いに出されてなかったけど、テイラー・スイフトさんがグラミーでアルバム賞をとった時、プレゼンターであるセリーン・ディオンさんをやっぱり一瞬スルーしたように見えたのが話題になってませんでしたっけ?
ここからは、人生の半分以上を白人社会の中で生きてきた私の個人的な意見です。エマ・ストーンさんがどうのこうのじゃなく。白人の一部の人たちにおいては、アジア人が本当に本当に「目に入らない」のです。悪く表現するならば「眼中にない」のです。目の前にいるのに全く見えてない?ような行動をとられたことは一度や二度ではありません。そして多分見えてないの。
どこまで気にするか、程度にもよりますけど日常茶飯事です。そして無視してる方は悪気もなければ、無視してる自覚もない。(意識的にやってる人は違いますよ?それは無意識の差別じゃなく”人種差別”なのですぐ分かるし、相手も伝えようとしてくるから伝わります。)
わたしが、ニュージーランドで暮らし始めたのは2001年。一番の都会のオークランドならまだ違ったのかもしれませんが、いきなり田舎のワナカで移民生活をスタートさせた頃。
当時のワナカは人口3000人にも満たない小さな町。人口を形成していたのはリタイアしたファーマーさんや、お金持ちの人の別荘住まいなど、比較的裕福な方々が静かでプライベートな生活を求めて集まる町でした(そして現在進行形でもある。ハリウッドスターもお忍びで訪れることで有名。お忍びなのに。)。今は観光地として世界的にも有名になってきていて、色んな人種が住む非常に多様性に富んだメルティング・ポットな地域ですが、当時のローカル(現在も年配の方々)は「外国人に慣れていない」人が多かった。もとい、「アジア人に慣れていない人」がほとんどでした。
「アジア人」と会話をするのはこれが初めてであろう、という人ばかりで?。飲み会やディナーに(当時の)夫婦で呼んでいただくも、私のことは全く無視。ということが多々ありました。シンガポールから引っ越したので、余計に「あれ?私ったら透明人間?」みたいな気持ちになりましたっけ。(シンガポールは新日国なので)
そこに悪気がないのは明らかに伝わってきたんですけどね。「エイリアンが目の前に現れて、どうしていいかわからない人間」なんだろうなと。良い方に解釈するのなら「フレンドリーな無視」でした。多分、英語も通じないと思われてたんでしょう。通じても訛りでわからない、面倒くさい、という感覚があったんじゃないかな?
その後は社会生活において、役所や銀行等の手続きでは当時のイギリス人旦那(今は離婚)にしか話しかけない人たちや、カフェで順番待ちをしていたのに白人優先で後回しにされちゃうとか、そんなことは日常茶飯事でした。
そのことにも次第に慣れて、気づいたら完全に「イギリス人旦那のおまけ」的な自分になっていた私。自己肯定感は下がるけど、正直、楽といえば楽なので甘んじていた部分もあったりしましたけどね。
ほかに私がきづいた「無意識の差別」。
自分の得意な話題って雄弁になりがちですよね。私は犬や猫が大好きで、なかでもラブラドールとはもう20年以上一緒に暮らしているわけで、比較的大型犬の対応は自然に振る舞うことができると自覚しています。なんですが、初対面や通りすがりの方、果てはドッグトレーナーさんには頭ごなしに「よく分かってないでしょ?」的扱いを受けることは少なくありません。ああ、この人はアジア人は動物福祉の後進国という意識が根底にあるのかなと思ったことも何度か。これ、相手が白人の男性だとかなり顕著です。現在のパートナーであるマカロンさん(ニュージーランド人、白人)も含め、私の語る犬話に耳を傾けてくれる人は少ないのです。そして、なんと獣医さんもここに含まれます。(かかりつけ医や獣看護師さんたちはもちろん違います。非常勤やヘルプで来てる初対面の獣医さん。)
興味深いことに、これ「猫」だと大丈夫なんです。猫に関しての苦労話(と書いて”自慢”と読みます)を語る分には、相手は楽しそうに聞き入ってくれます。間違いなく私が話している相手も、猫に対してそんな立ち位置なんでしょう。"Dogs have owners, Cats have staff"という英語のことわざが頭に浮かぶ。このことわざを用いるなら、「わたしは猫のしもべにはなれてるけど、犬の飼い主としては認められていない」ということでしょうか。あ、と言ってもひがんだりは全くしていませんので、誤解なきよう。犬たちが私に示してくれる態度が一番大切であり、満足していますので。
それにしても世界中の人間をしもべにする猫、すごい。
そんな感じで、ハリウッドの煌びやかな世界から、いきなり地球の下の方のニュージーランドのど田舎に住む50代後半のいち日本人に話を飛ばして申し訳ない。どこの世界にも無意識の差別(これをそう呼ぶのであれば)は溢れていますよ、ということを言いたかったのです。
でも、上記のこと全てに「差別のイエローカード」を提示していたらキリがないし、社会に馴染むことはまず無理。「だったら出ていけば?」な話になり、世の中の分断化に繋がってしまう。せっかく多様性という言葉が世界を牽引しようとしている時代なのに。
世の中には色んな人間がいます。「わからない」ことに積極的に興味をそそられちゃうタイプ。「わからない」ことにあまり興味がなくて、脳内から削除しちゃうタイプ。「わからない」ことにある種の恐怖を持つタイプ。そしてその恐怖は怒りに変換されちゃうタイプ。
これはこのまま人種にあてはまるんじゃないかと思っていて。「アジア人」である自分に向けられる、これまで私が見てきた人々の対応です。
母国以外の国に住めば、もちろん色んなタイプの人に出逢います。
上記のように考えると、無視されることはある程度仕方がない。数ある人種や国の中から日本に興味を持ってくれて、好意的に振る舞う人が全員…だったら理想的ですけど、そんな人ばかりじゃないですからね。
オスカー授賞式に話を戻すと、たくさんの人たちと競いながらトップを常に走り続けることを要求される俳優さんたちが(この場合はエマ・ストーン)、自分と絶対に役を取り合ったりしないであろう人種と年代の違う相手(ミシェル・ヨー)のことが、目に入らないのはある程度仕方ない事なのかもしれません。少なくとも、きっと「脅威」じゃないんですよ。
でも、確かに「リスペクト」は持ってて欲しかったですね。
今回「オスカーでの対応は私のせい」とミシェルが(パブリシストが?)声明を出したことを、「これからのアジア人社会がまたなめられてしまう」と責める声もありました。「我々アジア人は声を上げ続けていかなければならない!」と。
ただ、アジア人と一言で括っても、それぞれが社会において立場が違うから、一様に「アジア人よ、声をあげよう!」と言われたら私は困ってしまうのです。
このニュースが世界的に話題になったこと自体、「時代が変わったなあ」と思いました。数年前までなら誰も気づかないというか、アジア人の受賞者なんて考えられなかったので、ステージ上にアジア人が立って無視されたことが話題としてとりあげられたことで考えさせられた人がたくさんいた。
これって、ものすごい進歩じゃない?
海外に30年以上住んで、時代の流れを体感しています。アジア人の、アジア文化の世界進出は近年稀に見るスピードで進んでいるおかげで、世界各地で透明人間だった私たちも少しずつ見え始めているのがこんな田舎に住んでても感じます。
といっても無意識の差別と呼ばれるものは、そんなに簡単にはなくなりはしないでしょう。これからも私たちは、時々透明人間になったり現れたりしながら過ごしていくのでしょう。
ただ今回のオスカーでの出来事は、母国以外の外国に住むアジア人の意識に何らかの変化をもたらしたと思うんです。
次世代のために、透明人間に甘んじることだけはこれからしたくない。かといって「今のは無意識の差別だ!」と、イエローカードを振りかざすのもどうかと思う。もちろん程度にもよるんですが。
相手にきちんと伝えたい。「私たちは透明人間じゃない」ことを。急がず、煽らず、ゆっくりと。
脅威を煽ったら、分断しかもたらさないと思うから。
多様性がどの国にも広がっていきますように。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。有料記事としていましたが、これで全部です。この先、有料部分には何もございません。もしも「投げ銭」していただけると小躍りして喜びます。
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